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控えめな「ヨーロッパ統合の父」 今さら聞けないブレグジット その2

Japan In-depth / 2019年7月21日 0時19分

前回、フランスとドイツとの国境地帯に暮らす人たちには、「先祖を4代さかのぼると5回国籍が変わっている」という例もまま見受けられる、と述べたことを思い出していただきたい。実はこの一帯には、石炭や鉄鉱石など豊富な鉱物資源が埋蔵されており、その西側すなわちフランス東部は、ヨーロッパ有数の穀倉地帯である。


このため、特に産業革命以降の近代においては、幾度となく両国の間で争奪戦の舞台となってしまった、となったというわけだ。この問題を一挙に解決する指針を示したのが、1950年5月9日、時のフランス外相ロベール・シューマンが行った演説である。



▲写真 ロベール・シューマン 出典:Gallica Digital Library


問題の、独仏両国の国境地帯で産する石炭と鉄鉱石を、長国家的な機関によって共同管理しよう、というもので、これに西ドイツだけではなく、両国と深い関係にあったベネルクス三国、さらにはイタリアも賛意を表し、翌1951年4月、ヨーロッパ統合の第一歩と称される欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足した。


さて。前回、ヨーロッパ統合運動の先駆者とされる、青山英次郎ことリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵を紹介させていただいたので、今回は、このシューマン宣言を起草したのをはじめ、大戦後の統合の動きを実務面で支えてきた、ジャン・モネという人物について見て行くことにしよう。


1888年、フランス南西部コニャックの生まれ。日本では、コニャックと言えば酒のカテゴリーもしくは銘柄と思っている向きもあるようだが、実はコニャック地方で作られるブランデーのことである。


学歴は高校中退。実家が代々のコニャック商人(日本風に言えば造り酒屋)で、父親も、「顧客がお前の教科書で、商売がお前の勉強だ」という考えの人であったらしい。


しかしながら、文章にも弁舌にも抜群の才能を示し、英米相手の商売を通じて本格的な英語を身につけ、なおかつ商売柄、ワインとチーズについての該博な知識を持つ彼は、たちまち欧米の政財界に太いパイプを築いたのであった。


こうして政界に進出したモネは、第一次世界大戦当時はロンドンで活動し、1919年に国際連盟が創設されると事務次長に任ぜられ(1923年に退任)、その後もコニャックの商売を続けながら、世界平和を訴え続けた。


第二次大戦中は、ド・ゴールの側近の一人と言ってもよい立場で、フランス亡命政府にも参加していたが、戦争終結後、ヨーロッパ統合の動きが現実のものとなってくると、二人の思想的な相違が次第に埋めがたいものとなって行き、1960年代以降の二人は、自他共に認める犬猿の仲となってしまう。


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