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英仏「信念の政治家」の相克(上)今さら聞けないブレグジット その5

Japan In-depth / 2019年7月31日 18時0分

彼は、バスケットボールをやらせればフランス一部リーグに名を連ねるクラブで活躍し、ジャズの評論を書かせても玄人はだしというマルチ人間なのである。一方では政治経済を、「労働者の耳にちゃんと届く言葉で語ることができる」点は大いなる長所だと、フランスのジャーナリストたちでさえ認めていた。


1981年、社会党第一書記のフランソワ・ミッテランが大統領選挙を制し、共産党などと連立した左翼連合政権が誕生。これに先駆け、CFTC(フランス・キリスト教労働者同盟)の指導者となっていたドロールは、社会党入りを懇願された。このCFTCは、フランスにおいては「第二の左翼」と称されていたのだが、基本的には名前の通り、カトリックの青年組織である。


日本ではキリスト教社会主義というものになじみが薄いが、イタリアやドイツでは幾度も政権に参画するほどの影響力を持っており、フランスにおいては、社会党よりもむしろ左翼的な理念を掲げて、存在感を示していた。


マルクスは『共産党宣言』の中で、キリスト教社会主義を偽善者呼ばわりしているが、本当はヨーロッパ近現代史において、この勢力が果たした役割は、決して小さなものではなかったのである。


ドロールの社会党入りについて、左翼政権誕生の暁には首相に、との密約がミッテランとの間で買わされたものと、多くの政治ジャーナリストは見ていたようだが、これは実現しなかった。「マルクスの著作に感銘を受けたことなどない」と言ってはばからない「異端の左翼」であったドロールは、社会党内では人気がなく、ミッテランとしても首相指名は躊躇せざるを得なかったのだ。



▲写真 ミッテラン大統領(左)出典:Flickr; Philippe Roos


ただドロールの方は、これは織り込み済みであったらしい。前述の密約の話だが、本当のところは、「首相が無理ならEC委員長に」とミッテランから言質を取っていたのだと、今では衆目が一致している。


そして事実、彼はミッテラン政権下で財務大臣を務めた後、1985年に念願通りEC委員長となる。少し時間が掛かったのは、このポストは加盟国の持ち回りだったからだ。


ともあれ政治家としての彼には、ヨーロッパ統合を推し進めるべきだとの強い信念があった。彼自身の言葉を借りれば、「米国の気まぐれなドル政策、強大な経済力を持ちながらその国際的責任を果たそうとしない日本、そして第三世界の貧困……これらの問題に対する解決策とは、統合されたヨーロッパの出現を置いてない」ということなのである。


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