1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

変革には後進の育成こそ必要

Japan In-depth / 2019年12月26日 20時21分

2009年に舛添要一厚労大臣(当時)が医学部定員50%増員を打ち出した際、その検討会の座長を依頼したのは髙久先生だった。舛添氏は、医学部定員増に反対する日本医師会や医系技官との関係を考慮しつつも、改革を断行できると判断したようだ。


同年7月の民主党への政権交代時には、故仙谷由人氏から髙久先生への仲介を依頼された。共に面談したが、仙谷氏は「あの人はスケールが違うな」と感想を述べた。


髙久先生は1931年に釜山で生まれた。父親は朝鮮総督府の役人だった。その後、小倉中学から第五高等学校、そして東京大学医学部医学科を1954年に卒業する。当時の北九州といえば、火野葦平が描いた『花と龍』の世界だ。火野の父で玉井組組長を務めた侠客玉井金五郎の一代記である。火野は小倉中学出身で、髙久先生の24年上だ。


先だってアフガニスタンで亡くなった中村哲医師は玉井の孫である。ネットで二人の写真を見比べると、あまりにそっくりなのに驚く。中村医師が内紛が続くアフガニスタンで活動を継続できたのは、生い立ちによるものが大きいだろう。一族に経験が蓄積されている。



▲写真 故中村哲医師 出典: 九州大学高等研究院ホームページ


私は髙久先生にも同じような匂いを感じた。その個人的な力量が高いことは言うまでもないが、私が注目したのは「彼を慕う弟子」、言い方を変えれば「子分」が多いことだ。私も、その中の一人だ。


なぜ、髙久先生に「子分」が多いのだろうか。


私は厚労省、日本医師会、日本医学会を批判してきた。髙久先生は13年間にわたり日本医学会会長を務めた。審議会の座長など、様々な要職を歴任してきた。医学界の重鎮には私との付き合いを避ける人もいるし、厚労省内には「上先生のグループとは距離を置いた方がいい」という役人が少なくない。当然、髙久先生の耳にも入ってきていただろう。


ところが、髙久先生は14年間にもわたり、我々が主催するシンポジウムに出席し、支援してくれている。彼は世の中を変革するには、権威にすがるのではなく、次世代を担う若手を育成することと本気で考えていたからだろう。髙久先生にとっては、私はいつまでも「若手」だ。「若手を育成することが大切」と言うはやすいが、その行動を継続することは難しい。


「現場からの医療改革推進協議会」の発起人には複数の政治家が名を連ねている。2006年11月に開催された第1回シンポジウムでは、黒岩祐治氏、足立信也氏、仙谷由人氏、舛添要一氏などが登壇した。当時、彼らの知名度は低かった。後に政府の要職を務めたり、知事になると思っている人はいなかった。


この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください