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「またしても」中止?(中)嗚呼、幻の東京五輪 その2

Japan In-depth / 2020年7月25日 23時0分

メイン会場として東京府荏原郡(現在は世田谷区の一部)にあった駒沢ゴルフ場の跡地に新しい競技場を造ることも決まり、1932年のIOC総会において、正式に招致の意思を明らかにしたのである。


記録によれば、東京の他にイタリアのローマ、フィンランドのヘルシンキ、ハンガリーのブタペスト、アイルランドのダブリン、カナダのトロント、ハンガリーのブタペスト、アルゼンチンのブエノスアイレス、ブラジルのリオデジャネイロ、エジプトのアレクサンドリアが立候補した。


当時のアジアでは、オリンピック委員会を組織し得る独立国は、日本以外に中華民国とアフガニスタンくらいしかなかったが、一方で南半球やアフリカ大陸の都市が名乗りを上げていたというのは注目に値する。すでに「欧米のスポーツ大会」ではなくなっていた、ということだろう。ただし現在に至るも、アフリカ・中東での開催実績はない。


当時はまた、夏季と冬季の五輪は同じ年に開催されることになっていたため、東京と並んで札幌市も冬季五輪の招致に名乗りを上げた。


かくして招致合戦が始まったが、1935年までには東京、ヘルシンキ、ローマが有力候補として残った。ところがまず、ムッソリーニ政権となっていたイタリアがエチオピアに侵攻したことで、世界中から非難を浴びることとなる(1935年、第2次エチオピア戦争)。


実はこの時、大日本帝国はあえてイタリアを非難せず、見返りにムッソリーニから「東京開催を支持する」旨の言質をとった、との説が根強くあるのだが、確たる証拠まではないようだ。



▲写真 ベニート・ムッソリーニ 出典:Wikimedia Commons; Martianmister and Vps


1936年のベルリン大会開催をすでに決めており、ナチス政権のプロパガンダに大いに利用すべく準備を進めていた(実際その通りの大会となった)アドルフ・ヒトラー総統も、東京開催を支持していた。


この例でもよく分かる通り、五輪の招致活動や運営において、


「政治とスポーツは無関係」


というのは幻想にすぎないと私は断じるものだが、この問題は後でもう一度見る。


その評価はひとまず置いて、やはり選挙である以上、ライバルが不利になるような働きかけが行われるのは、致し方ないのだろうか。この時、東京開催に反対する意見とは、


「高温多湿の土地柄で夏のスポーツ大会には適さない」


「ヨーロッパから遠く、旅費など参加費用の負担が大きい」


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