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フランスと中国の「革命」 それでも五輪は開催された その3

Japan In-depth / 2021年6月30日 12時54分

ちなみにド・ゴール政権に対する反発は、左翼よりも右翼の方がより過激であった。彼がアルジェリアの独立を認めたことに対し、元軍人を中心とする勢力が強く反発して、デモ行進どころか数次にわたる暗殺未遂事件まで起きた。これをモチーフに英国の作家フレデリック・フォーサイスがものした小説が、日本でも有名な『ジャッカルの日』である。





話を戻して、反ド・ゴールの学生・高校生らは、大学がロックアウトとなるや、市内のカルチェラタン(ラテン地区)で集会や無届デモを繰り返すようになった。その都度警官隊が乗り出したが、古くからの学生街であるこの地区では、活動家学生と一般学生を見分けることが出来ず、通りすがりの一般学生が警官に拘束されたり殴られる事件が頻発し、これがかえって反ド・ゴール派学生の数を増やす結果となった。最終的には、前述のように労働者も加わり、カルチェラタンの主だった道路にはバリケードが築かれ、警察が立ち入れない「解放区」が出現したのである。





読者ご賢察の通り、この頃から盛り上がってきた日本の学生運動でも、大学や街路をバリケードで封鎖する闘争スタイルがさかんに用いられたが、その源流はパリ五月革命に求められる。事実、同年6月には東京・神田駿河台の明大通りにバリケードが築かれ、警察機動隊と攻防戦が繰り広げられたが、学生たちはこれを「神田カルチェラタン」と呼んだ。





一方の、中国文化大革命は前年すなわち1967年から始まっていたが、毛沢東派の若者たちが「紅衛兵」を名乗って暴れまわる様子が広く世界に報じられるようになったのは、やはり1968年あたりからである。









▲写真 1960年代後半の文化大革命で、中国の国慶節である10月1日に天安門の外で行われた大規模なデモ。 出典:Getty Images





このように、アメリカ、ヨーロッパ、そしてアジアにまたがって大きな政治的動乱が起きていたのが1968年だったのだが、こんな意見も開陳されている。かいつまんで述べると、米国、フランス、そして中国における動乱は、それぞれ思想的・組織的に無関係なのに、マスメディアが、世界中が大変なことになっている、というイメージを広めたに過ぎないのだ、と。





これまた私見、半分正しく半分間違っている。





たしかに米国の公民権運動やヴェトナム反戦運動、フランスのパリ五月革命、中国の文化大革命は、それぞれ思想的・組織的に密接な関連性があったとは認めがたい。しかし、報道を通じて相互に大きな影響を与え合ったことは事実である。





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