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TOKYO1968(下)それでも五輪は開催された 最終回

Japan In-depth / 2021年7月12日 19時0分

一方で、学生紛争を経験した人たちの証言をまとめた書籍などによれば、学生たちは当初、右翼の暴力を警察が止めてくれることを期待していたが、実際には見過ごし、むしろ全共闘の学生だけが「選別逮捕」された、ということになる。





おそらくどちらも、自分たちに都合のよい主張をしているのであろうが、潮目が一挙に変わったのは、9月4日、経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動した警視庁機動隊に対し、四階から重さ18kgものコンクリート塊が投げ落とされ、これを頭部に受けた隊員が殉職した事件によってである。当日記者会見した警視庁公安部の幹部は、「警視庁はこれまで、学生にも言い分がある、と思っていたが、もうこれからは手加減しない」と怒りを露わにした。





この事件ではまた、日大全共闘の幹部8人が逮捕・起訴されたが、裁判においては「現場にいたとの証明がない」として、警察官の殉職事案については無罪とされた。つまりは未解決事件となっているのである。









▲写真 警視庁機動隊により封鎖解除された東大・安田講堂(1969年1月18日) 出典:Bettmann/Getty Images





パリ五月革命においては、労働者の一部が学生の血気に呼応したが、日本でも実は、デモや機動隊との暴力沙汰(ゲバルトと呼ばれた)に参加する労働者が見受けられた。彼らの多くは、反戦成年委員会を名乗っていたことから、反戦労働者と呼ばれる。この組織はもともと、当時の日本社会党が大衆組織のひとつとして旗揚げしたものだが、1968年以降の政治的動乱の中で、完全な「鬼っ子」となっていった。端的に言うと。社会党・共産党を「日和見主義者」と批判する新左翼陣営に加わったのである。





さらに言えば1970年代以降、学生運動はどんどん衰退していった。日大においても闘争の過激化が一般学生の支持を失う結果を招き、70年代初めには闘争は収束、全共闘も雲散霧消してしまう。代わって、新左翼諸党派においては反戦労働者が主力となって行く。





農民の反政府運動も起きた。成田空港建設反対闘争である。1960年代の初め頃から、羽田空港が手狭になる事態を見越して、新東京国際空港の建設計画が進められていたが、建設予定地となった成田・三里塚地区においては、農民の一部が用地の買収を拒否した。これに対して政府は、公益のために強制収容する、という方針を打ち出し、農民の側も、新左翼諸党派と連携して、次第に暴力的な対決に傾斜していったのである。





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