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剣道部の恩師田中康俊先生へ

Japan In-depth / 2021年8月31日 11時0分

田中先生の話は説得力があった。経験が言葉から滲み出た。鹿児島県鹿屋生まれの田中先生は、海軍飛行予科練生として終戦を迎えると、兵庫県警に奉職した。港町神戸は鹿児島との縁が深い。川崎重工の創業者川崎正蔵は薩摩出身、神戸新聞を創刊したのも川崎正蔵だ。終戦後、田中先生は、郷里の先輩を頼って神戸にやってきた。





戦後の神戸は治安が悪かった。1975年に高倉健主演で公開された『神戸国際ギャング』で描かれる世界が本当にあったようだ。交番勤務時代、刃物を持った犯罪者と渡り合った話など、1968年生まれの私には想像がつかなかった。





芸は身を助ける。田中先生にとっての芸は、剣道だった。戦後、GHQの命令で剣道は禁止される。復活するのは敗戦から5年後だ。1950年に全日本しない撓競技連盟、次いで1952年に全日本剣道連盟が結成される。兵庫県警でも剣道が復活し、剣道の本場鹿児島で鍛えられた田中先生は、頭角を現し、兵庫県警の選手として活躍する。





筆者が、田中先生と出会ったのは、田中先生が現役を引退し、師範として後進の育成にあたっているときだ。兵庫県警以外でも、県内の子供たちに稽古をつけていた。その中の教え子の一人に河村倫哉君(現大阪大学国際公共政策研究科准教授)がいた。





1981年、私と河村君は灘中学に入学し、ともに剣道部に入った。河村君が灘中学に合格したのをきっかけに、田中先生は灘中学、高校の剣道部に顔を出すようになった。





かつて灘高校の剣道部は強かった。1964年には兵庫県で優勝し、インターハイに出場したこともある。灘高が日比谷高校を抜いて、東京大学合格者数全国一になるのは、その3年後のことだ。文武両道だったようだ。





灘高校でもスポーツで優秀な成績を残す人はいる。私の4年上には水泳の平泳ぎで、全国屈指の選手がいて、東大進学後はインカレで優勝した。その後、ロサンゼルス五輪の代表候補となっている。今年は陸上100メートルのインターハイ近畿予選で、灘高の生徒が優勝した。自己が持つ兵庫県記録を更新したらしい。





ただ、このような競技は、いずれも個人競技だ。偶然、身体的能力が高い生徒が入学してきて、学校教育とは別の地域クラブのような枠組みで鍛えられれば、トップレベルの成績を残すこともあるだろう。1964年の灘高校剣道部は違った。団体戦で、兵庫県で優勝するのは並大抵ではない。田中先生は、当時の生徒たちを興味深く見ていたそうだ。





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