英軍もソ連軍も追い出した(上)「列強の墓場」アフガニスタン その1
Japan In-depth / 2021年9月16日 23時30分
中央アジアにおいても、インド亜大陸西部=現在のパキスタンと境界を接するアフガニスタンの地は、決してロシアの支配下に入ってはならなかった。理由は簡単で、インド亜大陸から、中東にまたがる英軍のプレゼンスを脅かす戦略など、容認できるはずがないではないか。
当時のアラブ諸国は大部分がオスマン帝国の支配下におかれていたが、ロシアと英国はいずれも食指を動かしていた。つまりは二重三重に両者の利害が対立していたのである。
直接のきっかけは、アフガニスタンにおいて権力闘争が起きたことであった。
もともと英国がインド亜大陸の植民地化に成功したのは、部族社会特有の入り組んだ力関係を利用してきたからだとされている。端的に述べると、まずAの部族を叩くためにBの部族を諜略して味方につけ、次はCを取り込んでBを叩く……ということを繰り返してきたのだ。
かくして1839年、英軍はアフガニスタンの地に侵攻し、国土の多くを支配下に納めたのだが、アフガニスタン人の抵抗も激しく、最終的には撤退を余儀なくされてしまう。その際にカンダマク付近の峠道で追撃を受け、兵士と補給部隊の荷役らおよそ1万6000名もの犠牲者を出した。古来、退却戦が最も困難なのは軍事の常識だとされるが、この問題は後でもう一度見る。
こうして1842年まで戦われたのが第一次アングロ・アフガン戦争と呼ばれる。
第二次は1878年、またしても英軍による侵攻でその幕が切って落とされたが、背景は第一次と比べてもう少し複雑なものがあった。これに先立つ1876年、ロシアがコーカンド・ハン国(現在のウズベキスタンの大部分を占めていた)を併合し、中央アジアでの覇権を露骨に狙い始めたのである。
その後の展開は第一次と似たり寄ったりで、またしても英軍がアフガニスタンに侵攻し、今度は現在の首都であるカブールはじめ、多くの要衝を占領することに成功した。最終的に植民地化まではできなかったが、外交権を英国にゆだねるとの条約に調印させ、保護国とした上で撤退することとなった。
▲絵 1879年の第二次アングロアフガン戦争中のカブールの英国居住地への攻撃 出典:Photo by Culture Club/Getty Images/Hulton Archive
またしても余談にわたるが、あのシャーロック・ホームズの助手であるワトソン博士も、軍医としてこの第二次アングロ・アフガン戦争に従軍したとの設定になっている。
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