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英軍もソ連軍も追い出した(上)「列強の墓場」アフガニスタン その1

Japan In-depth / 2021年9月16日 23時30分

もうひとつ、この戦争がもたらした影響についても見ておかなければならない。





1880年に英軍が撤退したこともあって、英領インドとアフガニスタンとの境界がひとまず確定したのだが、現在もアフガニスタン人の多数派を形成するパシュトゥーン人の生活圏が、当人たちの意思とかかわりなく東西に分割されてしまったのだ。実はこれが、後にパキスタン領内でタリバンが生み出される下地となるのだが、当時は、そのようなことを予測した人は誰一人いなかった。





そして1919年5月、今度はアフガニスタンの軍隊が、英領インドに襲いかかるという形で、第三次アングロ・アフガン戦争が勃発する。





アフガニスタンにとっては外交権を奪い返して完全な独立を果たす、という大義名分があったわけだが、現在のパキスタンに暮らすパシュトゥーン人の協力が期待したほどには得られず、また、緒戦において英軍が、第一次世界大戦で初めて会得した、空爆という手段で応戦したことにより、アフガニスタン兵に大いなる精神的ダメージを与えたとされる。





しかし、第一次世界大戦で国力を大いに消耗していた英国も、簡単にアフガニスタンの軍勢を駆逐することはできず、たちまち戦線が膠着してしまう。





すると一転、アフガニスタン側は講和を持ちかけ、前述のように戦争を継続する意思を失っていた英国もこれに応じた。同年8月、アフガニスタンは外交権を英国から奪還し、れっきとした独立国になったのである。





意外に思われるかも知れないが、ここには、1917年に起きたロシア社会主義革命も影響している。





誕生間もないソ連邦=共産党政権は、資本主義国家による包囲の中で、どのようにして国を守って行けるか、という命題に向き合わざるを得なかった。実際に、日本を含む複数の国から反革命戦争を仕掛けられてもいた(日本軍は1918年、シベリアに出兵)。





このため、帝政ロシアの侵略主義を強く非難し、軍事的冒険を伴う「革命の輸出」はしない、などとアピールしていた。これを英国の立場から見れば「ロシアの南下政策の脅威」がひとまず消滅したことになり、言い換えれば、是が非でもアフガニスタンを制圧しておかねばならない理由もなくなってしまったのだ。





しかしそのソ連邦も、第二次世界大戦の戦勝国となるや、各地で革命の輸出に熱心となり、アフガニスタンにおいても社旗主義政権を後押しして、ついには「援助進駐」に至る。





ここから「無神論の大悪魔」を相手取ったイスラム勢力のジハード(聖戦)が始まるのだが、その話は、次回。





トップ画像:第一次アングロアフガン戦争(1841年11月2日:カブールでのアレクサンダーバーンズ卿の暗殺の模様) 出典:Hulton Archive / GettyImages




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