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政略結婚こそ「王道」であった 王家の結婚とはなにか その1

Japan In-depth / 2021年10月14日 11時0分

▲写真 ダイアナ妃(1961年-1997年)とチャールズ皇太子 1985年4月20日、ラスペツィアのイタリア海軍基地にて 出典:Photo by Princess Diana Archive/Getty Images





ともあれ、国籍を異にするのはかまわないが、宗派を異にするのはよろしくないというのは面白い。もちろん、宗教に関して寛容と言うかいい加減と言うか、そういう日本人の視点で見ればの話だが。





いくつかの流れがあると述べたのも、具体的にはこのことと関わりがあるので、プロテスタント及び英国国教会を一方の「派閥」と見なすなら、もう一方の雄はカトリック、わけても神聖ローマ帝国に君臨したハプスブルク家である。





ハプスブルクとはドイツ語で「鷲の城」という意味で、家紋にも双頭の鷲が描かれている。





11世紀までは、現在のスイス北部に領地を持つ小豪族で、遠祖もドイツ貴族の外戚に過ぎなかった。領土が拡大してからは、あのユリウス・カエサルの末裔だと称した時期もあったのだが、もちろんこれは、まったく信用されていない。





ただ、政略結婚を繰り返すことによって、目覚ましいほどせの勢力拡大を見せたことは事実だ。代々美男美女が多く生まれたので、このことも政略結婚を容易にした一因だと考えられている。前述のようにスイスが発祥の地だが、やがてオーストリアに拠点を移し、最盛期にはドイツ語圏のほぼ全域(=神聖ローマ帝国)からスペイン、イタリア北部(トスカーナ大公国、ナポリ王国)までを手中に収め、ヨーロッパ随一の名門と称されるまでになった。どこの誰が言い出したのか、





「戦争は他国に任せておけばよい。幸いなる汝オーストリアよ、結婚せよ」





という言葉が人口に膾炙したほどである。





その象徴にして最後のあだ花とも言うべき出来事が、18世紀ハプスブルク家に君臨した「女帝」マリア・テレジアの皇女マリア・アントニアの結婚である。





順を追って少し解説を加えねばならないが、ドイツ文化圏では昔から女性の王位継承権を認めておらず、マリア・テレジアは「共同統治者たる王妃」である。実はこのシステムは、現代日本の皇位継承権問題にまで関わりがあるのだが、これについては稿を改めよう。





話を戻して、マリア・テレジアの皇女マリア・アントニアが嫁いだ相手とは、時のフランス国王(ブルボン朝)ルイ15世の孫、後のルイ16世である。彼女はまた、結婚にともなって名前もマリー・アントワネットとフランス語読みにした。





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