1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

箱根駅伝の功罪 年末年始の風物詩について その4

Japan In-depth / 2021年12月27日 22時22分

そう言われてみれば、1992年バルセロナ五輪の銀メダル(森下広一選手)を最後に、つまり今世紀に入ってから男子のメダリストは出ていない。





ただ、その原因として箱根駅伝が取り沙汰されてよいものか否か、私などには判断のつきかねる話である。





箱根駅伝、正式には「東京箱根間往復大学駅伝と競争」と言うのだが、その歴史は1920年2月14日にさかのぼる。つまり、最初から正月のイベントというわけではなかった。2月14日はバレンタインデーだが、おそらく無関係だろう。





発案者は金栗四三。





日本マラソンの父と言われる人物で、2019年のNHK大河ドラマ『いだてん 東京オリムピック噺』の主人公としても知られる。六代目中村勘九郎が演じた。









▲写真 金栗四三氏(1924年) 出典:Bettmann / GettyImages





1912年のストックホルム五輪において、日本人として初めて男子マラソンに出場を果たすも、長旅の疲れが抜けきらないうちに出走時間を迎え、26キロ付近で熱中症になってしまった。選手が行方不明、と騒ぎになったが、意識朦朧となって沿道の農家に担ぎ込まれ、介抱されていたことが判明し、あらためて途中棄権と記録された。当時は中継車などなかったのはもちろん、監視もいい加減だったようだ。





帰国後も教員生活(彼は東京高等師範学校=現・筑波大学卒)の傍らマラソン選手、さらには裏方として多くの競技会の立案から開催まで尽力した。









▲写真 ストックホルムオリンピック(1912年) 出典:Bettmann/GettyImages





こうして前述のように日本マラソンの父と称されるまでになった彼の功績を称えるべく、スウェーデンのオリンピック委員会は1967年、75歳になった金栗を「ストックホルム五輪55周年」に招待し、競技場をゆっくり走ってからゴールテープを切る、というイベントを行った。これにともない、大会における彼の記録も「途中棄権」から





「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。最下位」





と訂正されている。





話を箱根駅伝に戻すと、もともと金栗は、優秀な長距離ランナーを発掘するには、世界の耳目を集めるような駅伝の大会を実施するのが早道だと考えており、





「アメリカ大陸横断駅伝徒競走」





を企画した。その予選競技会という位置づけで考え出されたのが箱根駅伝で、アメリカ大陸横断となれば最大の難所はロッキー山脈越えであるから、その予選ならば箱根越えがよいだろう、との考えであったようだ。当の全米横断駅伝は、資金などで実現しなかったが、箱根駅伝は戦争による中断はありつつも、次第に学生陸上競技の華と言うべき地位を確立したというわけだ。





この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください