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「猪瀬直樹氏と考える“失われた30年”」続:身捨つるほどの祖国はありや 13

Japan In-depth / 2022年1月17日 11時0分

「猪瀬直樹氏と考える“失われた30年”」続:身捨つるほどの祖国はありや 13




牛島信(弁護士・小説家・元検事)





【まとめ】





・10年前のドイツ製電気カミソリの優秀さ。日本の「失われた30年」も当然の結果か。





・『公(おおやけ)日本国・意思決定のマネジメントを問う』という猪瀬直樹氏の本を読んだ。





・猪瀬氏、カズオ・イシグロは『日の名残り』の中で「現実の政治や国際情勢に接続している『公の時間』が連綿と流れている」と指摘。





 





正月休みが明け職場にでる朝になると、毎年の恒例行事が待っている。





ヒゲを剃ることである。年末年始の休みにはヒゲを剃らないで過ごす。したがって、恒例行事の朝には1週間分のヒゲが生えている顔を鏡のなかに見ることになる。





もう何十年も電動のカミソリしか使っていない。新しいのが出たのをみつけると、少しでも性能が良くなっているのではないかと期待して、ついつい買ってしまう。宣伝には、そううたってあるのだ。





そんな次第で、手もとには、10個をこえる電気カミソリがスタンバイしていることになってしまう。これもガジェットということになるのだろうか。どれも充電式だから、何種類もの充電コードを使いわけなくてはならない。同じメーカーであっても差し込みの形がほんの少し変えられていて、なぜなのかととまどう。あれはなにか必然性があってのことなのだろうか?国産もあればドイツ製もある。新しいのは国産だから、今年はそのなかでも最新のものを手に取ってスイッチをいれた。アゴにあてて動かすと痛い。無理もない。いつもはこんなに長くなったヒゲを相手にすることはないのだ。





ふと思いたって、10年近くになるドイツ製を試してみる気になった。以前、テレビの広告で、朝ヒゲソリを済ませている出勤途中の男性に電気カミソリを手渡していた会社のものである。ヒゲソリを済ませて勤務先に向かっている方にもう一度ヒゲソリをしてもらうのだ。すると不思議、みごとにソリ残しのヒゲがシェーバーに溜まっていて、コンコンと軽く叩いてそれを取りだしてみせるという画面がみごとだった。へえ、ここのシェーバーはこんなに凄いのか、と実感させられた。





このドイツ製、久しぶりに使ってみると、果たしてこれがなんともスムーズなのである。ノド近くに生えた、少し寝た長いヒゲも簡単に剃れてしまう。





驚いた。





へえー、これじゃ「失われた30年」も当然の結果なのか、などと、最近個人的に力をいれている特別プロジェクトのことをつい思い出してしまった。「どうする日本」などと力んでみても、ヒゲソリひとつでこの差では、といささかの感慨にふけってしまったのだ。





女性であれば、正月休みには化粧をしないで自宅にいたのが、正月明けには化粧をしないわけには行かない、というようなことがあるものだろうか。そうだとしたら、似たような経験を化粧品でするのだろうか。日本製の化粧品と外国製の化粧品とで、1週間ぶりの化粧品の乗りが、同じものなのに違ったりすることがあるのだろうか?





もっとも、化粧品についてはコロナのせいでずいぶんと化粧のしかたが変わったとも聞く。マスクである。それでも、目元の化粧はすることになるのだろうが、どんなものなのだろうと考えたりする。





いつのころからか、新年になったからといって、ことさらに祝うことはしなくなってしまった。誕生日だからといって祝う理由などなにもないと思っているのと同じである。今日が或る理由で大事な日であるならば、昨日はどうなのかと考えてみると、昨日も同じように大事なはずだと思うのである。明日も同じ。どの日も同じである。





といって、明けましておめでとうございます、という挨拶を避けるというわけではない。おめでたいというのが世間相場なのだから、おめでたい「かのように」ふるまうことが常識にかなうとも思っているのである。





正月の休みには何冊もの本を読むことができた。その中でも、『公(おおやけ) 日本国・意思決定のマネジメントを問う』と題された猪瀬直樹氏の本を紹介したい(ニューズピックス 2020年刊行)。





まことに興味深い、考えさせられる本である。猪瀬氏の個人的なことも出てくる。「僕はちょっと傲慢になっていたかもしれない。そこのところを足を掬われた。自らの落ち度で招いたことと反省している。」(257頁)とまで書いている。





そこに「森鷗外の『家長としての立場』」という章があって、「かのように」が出てくる。五条秀麿という鷗外の分身が、子爵の息子たる主人公として登場する小説で、題そのものが『かのように』という。鷗外50歳のときの作品である。





猪瀬氏の引用を以下にそのまま再掲する。





「祖先の霊があるかのように背後を顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのように、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。・・・どうしても、かのようにを尊敬する、僕の立場よりない」(124頁) 





ほう、ここにも背後が出てくるなと思う。『妄想』になんどか出てくる言葉だからである。調べてみると、『かのように』の前年に書かれたものなのだ。





猪瀬氏は、「鷗外は家長の立場を貫いた。経営体としてのイエの責任者、もう少し大きく表現すれば天皇制国家を支える司祭の自覚である。」と評する。「欧米列強に対して、まだ成育途中のよちよち歩きの国家は建設途上、きちんと成人させなければいけない。」というのだ。(同頁)





「鷗外の責任感は凄まじかった。友人宛てに覚悟のほどを伝えた。『女、酒、煙草、みな絶対にやめている。僕のやっている最大叙述(『元号考』)のためだ。』(121頁)





その責任感は、猪瀬氏の引用によれば、「明治は支那の大理という国の年号にあり、大正は安南人(ベトナム)の立てた越という国の年号にあり。しかも正しいという字は、分解すると“一にして止む”となり、『正』の文字を年号に使って滅びた国が幾つもある。不調べの至りと存じ候」というほど強いものである。猪瀬氏の表現によれば「吐き捨てるように書きつけている。」ということになる。





「明治政府の楽屋裏はまだお粗末だったのだ。日清・日露戦争を戦い、とにかく西洋列強から侵略されないよう独立を維持するだけで精一杯だったということを鷗外の世代は知っていた。」猪瀬氏の慧眼は、「いまから見れば明治という時代は立派な天守閣がそびえているような姿に映る。だが実際には応急的な制作物であり、城郭の内側はあわててうちつけたベニヤ板に釘が浮いているようなしろものでしかなかった。」と見抜いている。





ところが、「鷗外の後の世代が、権威に反発する放蕩息子のようにふるまうことが新しさだと思い込んだ。」





猪瀬氏は、村上春樹にはノーベル賞がとれるはずがないと考えているようだ。自衛隊を軍隊と認めない、「ディズニーランド」のような歴史の存在しない世界」(99頁)、「そういう何もない虚しい平和という環境を、後に描くことになる僕と同世代の作家が村上春樹で、虚しさを描いてもただ甘さと苦さの入り混じった感傷が残るだけだ」と断ずるからである。





村上春樹に比べてのカズオ・イシグロに対する猪瀬氏の評価は高い。





「時間が停止した『ディズニーランド』とは異なる、歴史のなかに生きる人物が描かれているからである」として、『日の名残り』をあげる。「第一次世界大戦から第二次世界大戦へと向かう戦間期が時代背景として丹念に書き込まれている。」「そこには現実の政治や国際情勢に接続している『公の時間』が連綿と流れている。」と指摘するのである。(100頁)





極めつきは、「『日の名残り』には、「公の時間」のなかに「私の営み」が抒情的に描き込まれている。」という一節が猪瀬氏の文学観を端的に示している。私は深くうなづいた。そうだったのである。









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