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相馬野馬追から学ぶこと

Japan In-depth / 2022年7月26日 16時0分

相馬野馬追から学ぶこと


上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)


「上昌広と福島県浜通り便り」





【まとめ】


・私は、相馬野馬追にインターンの学生を連れていく。地域社会を考える好機だから。


・時の幕府が「軍事訓練」とみなし禁止しようとしたが、相馬の人は「神事」だとして守ってきた。


・多くの苦難を乗り越えてきたコミュニティは強い。強靱な地域社会の存在こそ我が国の宝。相馬から学べることは多い。


 


7月末、相馬野馬追(そうまのまおい)を見てきた。毎年7月末の週末に開催される行事だ。相馬地方各地から、甲冑姿の騎馬武者たちが雲雀ヶ原祭場地を目指して行軍し、甲冑競馬、神旗争奪戦を繰り広げる。そして、最終日の小高神社で行われる野馬懸で締めくくられる。


私は、野馬追に医療ガバナンス研究所でインターンをする学生を連れて行く。今年は上田桃子さん(同志社大学)、吉本愛佳さん(タイ、NISTインターナショナルスクール)、吉村弘記君(広島大学)、安永和矩君(東京海洋大学)、加藤直人君(自治医科大学)が同行した(写真1)。私が、若者たちに野馬追を勧めるのは、地域社会を考える好機だからだ。



 


(写真1)雲雀ヶ原祭場地までの「お行列」の光景。左から上田桃子さん、吉本愛佳さん、吉村弘記君、安永和矩君、加藤直人君(2022年7月)


野馬追は、鎌倉開府前から続く伝統行事だ。権力者は、自分たち以外の勢力が強い武力を持つことを嫌う。鎌倉幕府、江戸幕府などの時の支配者は、何度も「軍事訓練は認められない」と野馬追を禁止しようとした。しかしながら、その度に相馬の人々は「神事」と申し開きし、野馬追を守ってきた。


なぜ、相馬の先人たちは、そこまで野馬追にこだわったのか。それは、強大な伊達家60万石と隣接していたからだ。その武力は、相馬家(6万石)とは比較にならない。伊達家に周囲の小大名は全て滅ぼされた。独立を保ったのは相馬家だけだ。相馬家は生き残りに懸命だった。彼らが重視したのが外交と軍事だ。


前者については、戦国時代は佐竹家、その後、石田三成、本多正信、さらに譜代の土屋氏と縁を結び、最終的には譜代大名として生き残る。戊辰戦争では、いちはやく降参し、相馬中村城が新政府軍の支配拠点となるも、厳しい処分を免れた。この時は、最初から官軍に与し、強力な庄内藩や南部藩と戦った秋田藩の存在も大きい。相馬藩と秋田藩は姻戚関係で、戊辰戦争時の秋田藩当主佐竹義堯は、相馬家からの養子だった。新政府も秋田藩主の実家に厳しい処分は下せなかったのではなかろうか。


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