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「象徴天皇制」歴史から学ぶ 「高岡発ニッポン再興」その26

Japan In-depth / 2022年8月11日 7時0分

「象徴天皇制」歴史から学ぶ 「高岡発ニッポン再興」その26


出町譲(高岡市議会議員・作家)





【まとめ】


・終戦後、連合国の中には天皇を退位させるべきという声が渦巻いていた。


・最終的には、日本国憲法に「象徴天皇制」が盛り込まれ、天皇については、処分の対象から外された。


・「天皇は空に輝く象徴みたいなものだ」という高僧山本玄峰の言葉が、象徴天皇制の起源であると言われている。


 


 


 1945年8月15日正午、玉音放送が流され、日本は終戦を迎えました。終戦に最後まで反対していたのは、陸軍大臣の阿南惟幾です。阿南はこの玉音放送を聞くこともなく、午前5時に自決しました。


 この阿南は自決する直前、総理大臣の鈴木貫太郎と面談しました。これまで貫太郎に迷惑をかけたと述べた上で、「私の真意は、ただ一つ国体を護持せんとするにあった」と説明しました。国体、つまり天皇陛下を中心とした国家の在り方を維持するよう求めたのです。貫太郎もまた同意しました。


 しかし、天皇陛下はいったいどうなるのか。日本の総理大臣がどのように主張しても、思い通りにはなりません。連合国の中には「退位させるべき」という声が渦巻いていました。アメリカの世論も天皇には厳しかったのです。ギャラップ社の調査では、昭和天皇について「殺せ、拷問し餓死させよ」が36%、処罰または流刑が24%などと、80%近くが処罰や裁判を要求していました。



写真)長和殿のベランダに立ち、新年を祝う国民に向かって手を振る昭和天皇 1984年1月2日


出典)   Bettmann/Getty Images


最終的には、日本国憲法に「象徴天皇制」が盛り込まれ、天皇については、処分の対象から外されました。象徴天皇制の起源については諸説ありますが、前回もお伝えした、高僧、山本玄峰が深く関与したとも伝えられている。山本玄峰は、高岡にある国泰寺の末寺、全生庵を拠点として、終戦の際には大きな影響力を持っていました。


 玄峰はどのようにかかわったのか。幣原内閣の内閣書記官長だった楢橋渡が、書き残した文章から浮かび上がります。内閣書記官長は今でいえば、官房長官のポストです。


楢橋は昭和21年正月ごろ、GHQ民政局のホイットニー局長、ケージス大佐、ハッセー大佐らと天皇についてどのような地位にするか相談しました。場所は、人目につかないよう大磯にある明治の元勲、伊藤博文の別荘、滄浪閣です。


アメリカ側は、天皇を退位させた形の憲法を要求、こんな主張を展開しました。


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