日本が育てた覇権国家中国 日中国交50年の反省 その3
Japan In-depth / 2022年10月9日 11時0分
そこには明らかに民主主義擁護、人権尊重優先という普遍的な価値を重んじる発想はなかったといえる。中国の国民への同情という人道主義からの配慮もうかがわれなかったのである。
だがそれでもアルシュ・サミットでは日本は欧米諸国に押し切られた形で中国へのODAの主要部分だった有償援助を停止とした。無償援助はそのままだった。しかし日本政府は翌年の1990年には停止していたODAを各国に先駆けて復活させたのである。
一般レベルでの中国への渡航の自粛という日本政府の通達もすぐにキャンセルとなった。1991年には時の海部俊樹首相が西側諸国では最初の政府トップとして中国を訪問した。
しかも天安門事件の弾圧の責任者の一人、李鵬首相ともふつうの会談をしたのだった。さらに翌年の1992年には日中関係の歴史にも特筆される昭和天皇の訪中というところまで発展したのである。
▲写真 昭和天皇訪中(1992年、中国・北京) 出典:Photo by Forrest Anderson/Getty Images
こうした日本の動きはひたすら中国共産党政権との関係を緊密にするという姿勢を国際的にも際立たせることとなった。中国側はその日本を対中制裁を破る突破口として政治利用していたのである。その本音のような回顧を当時の中国外相だった銭其琛氏が率直に述べていた。以下はその『銭其琛回顧録』からの記述である。天安門事件からわずか2ヵ月後の状況の回顧だった。
《中国に対して共同で制裁を課してきた国々の中で、日本は終始、積極的ではなかった。私は1989年6月にパリの国際会議で日本の三塚博外相と会談した。彼は私に対して、『先進7ヵ国首脳会議で、日本は中国のために釈明し、西側の対中制裁をエスカレートしないよう説得した』と語った。中国が安定を回復するにともない、日本は1990年には大型ODAを再開した。日本は西側の対中制裁の連合戦線の最も弱い輪であり、中国が西側の制裁を打破する際におのずと最もよい突破口となった》
銭其琛氏自身が『突破口』という言葉を使って日本の当時の立場を描写していたのである。
(つづく。その1、その2)
トップ写真:天安門事件(1989年6月4日、中国・北京) 出典:Photo by Jacques Langevin/Getty Images
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