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実力の世界とジェンダーについて(下) 娯楽と不謹慎の線引きとは 最終回

Japan In-depth / 2022年11月1日 3時28分

 


つまりこの決定で、トランスジェンダーの選手の人権が侵害されたとは言えない、と私は考える。民主主義に照らして、人権はなによりも尊重されなければならないのは当然だが、と言って、万人が完全に満足できるシステムなど作れるはずがない。


だからこそ民主主義が目指すものとは「最大多数の最大幸福」である、と昔から言われるのではなかったか。一人のトランスジェンダーの選手に配慮して、圧倒的多数であるところの「女性として生まれた選手たち」の声に耳を貸さないというのでは、いかなる意味においても民主的なやり方ではない。


 


もうひとつ、生まれつきの性とトランスジェンダーとの間には、どこかで線引きをしなければなるまい。


と言うのは、五輪やワールドカップに出場したい、との理由で国籍を替える選手が後を絶たないからで、将来的に、金メダルのために性別を変えてしまうような選手が現れる可能性も否定できないと思うからだ。


国籍と性別は違うだろう、との声が聞こえてきそうだが、本当にそう言い切れるだろうか。前にも述べたことがあるが、五輪でメダルを獲得すれば、億単位の収益も期待できるのが現在のスポーツ界なのである。


 


ここで、話を再び文化・芸能の分野に戻そう。


 


古典芸能では、歌舞伎の舞台に女性が立てず、一方より近代的なエンターテインメントでは、宝塚歌劇団(以下、宝塚)は男子禁制の世界である。


 


これについては男女を問わず、抗議の対象になったという話は聞かない。これはジェンダーの問題とは少し違うかも知れないが、歌舞伎の舞台に女性が立ち、宝塚の舞台に男性が……ということになると、歌舞伎の女形。宝塚の男役の存在意義があやしくなるからではないだろうか。


 


もっとわかりやすく言えば、相撲の土俵に女性が上がってはいけない、というのは明らかな差別だが、女子相撲にプロや実業団がないのは、今のところ競技人口が圧倒的に少ないから、という問題に過ぎない。前回、将棋の女流について述べたのも、話がここにつながってくるからで、自分も土俵に上がってみたい、という女性が増えれば、相撲界の考え方も変わって行くだろう。


 


民主主義も人権も、天から与えられたものではなく、長い時間と大いなる労力を費やして、ようやく普遍的なものとなってきたものだ。そして、より平等な社会を実現する為の試行錯誤は、今も続いているのである。


過去の連載はこちらから(その1、その2、その3、その4、その5、その6)


トップ写真:女子水泳・飛び込み選手権大会の500ヤード自由形で優勝したトランスジェンダーの選手リア・トーマス(2022年3月 アメリカ・アトランタ)


出典:Photo by Justin Casterline/Getty Images


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