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忘れ得ぬドーハの悲劇(下) 熱くなりきれないワールドカップ その3 

Japan In-depth / 2022年11月25日 18時0分

 とりわけ、選手の特性を見抜き引き出す才能にかけては、非凡なものがあったらしい。嘘か本当か知らないが、代表監督に就任する直前、招集候補の顔写真を見ただけで誰がどのポジションで、どのようなプレーを得意とするかを当てて見せ、日本人スタッフを驚愕させたという逸話まである。


 実際に彼は、やはり実業団2部のマツダSC(現サンフレッチェ広島)から、一人の若手を代表に招集した。無名の選手ゆえ他の代表候補たちは姓名の読み方さえ分からなかったという。「もり・ほいち」なのか「もりほ・はじめ」なのか。


 読者ご賢察の通り、正しくは「もりやす・はじめ」であり、現在カタールの地で戦っている日本代表の森保一監督その人である。


 彼は代表に招集されるや、守備的ミッドフィルダーとして先発に定着し、アルゼンチンとの親善試合の後、相手方の監督が、


「日本にはよいボランチがいる」


 と評価した。守備的ミッドフィルダーの別名だが、もとはポルトガル語で車のハンドルのことで、相手の攻撃の連係を断つべく、右へ左へと忙しく動くことからの連想であるらしい。


いずれにせよ、これが報じられたことにより、ボランチという言葉が、日本のサッカー・ファンの間で広く知られるようになった。


言い換えれば、このこともまた当時の日本サッカー界の経験値の低さを証明している。ボランチという言葉さえ知られず(実を言えば、ヨーロッパではあまり一般的でないが)、当然ながら世界のサッカーのトレンドについて、ほとんど知識がなかった。このことに当時の協会上層部が危機感を抱いたからこそ、初の外国人監督が招聘されたのである。


実際問題として、Jリーグの開幕は1991年。それ以前の日本サッカーにはプロリーグなどなく、ワールドカップ本大会出場を目指して、カタールのドーハに乗り込んだ面々も、ほぼ全員、2年前まで実業団にいたわけだ。


当然ながら選手層の薄さも隠しようがないもので、左サイドバックを任されていた都並敏史が負傷・戦線離脱した際に、代わりの選手がなかなか見つからなかった。オフト監督も頭を抱えてしまい、


「街へ出て、あなたサッカーやってませんか?左サイドバックできませんか?と訊いて回りたいくらいだ」


 と漏らしたという逸話まである。


 結局、ボランチが本職である三浦泰年(知良の実兄)を起用するなどしたが、


「どうしてあの選手が(代表に)選ばれないんだ」


 と毎度大騒ぎになる昨今から見れば、隔世の感がある。この問題は、次回見よう。


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