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神も仏も酒が好き(下)酒にまつわるエトセトラ その6

Japan In-depth / 2023年1月31日 11時0分

ともあれ、その鴻池は酒の販売で巨利を博し、その資金を元手に両替商を始めた。今で言う金融業で、1674(明暦2)年以降は大阪の今橋に本店を構え、江戸末期には、


「日本の富の七部は大阪にあり。大阪の富の八部は今橋にあり」


と言われるまでになった。西日本を代表する富豪として、上方落語や芝居にもその名が登場するし、紀州徳川家や新撰組も鴻池から金を借りていた。酒蔵の方は廃れてしまったが、鴻池財閥の商脈を受け継いだのが三和銀行である。


江戸時代にはまた、それぞれの蔵元が清酒に商品名(銘柄)をつけるようになった。


当初は「助六」「猿若」など、歌舞伎役者にあやかった名が主流だったと資料にあるが、昨今「團十郎」や「芝翫」を売り出したら、おそらくネットで総ツッコミ……という話ではなくて、1717(享保2)年に創業された灘の酒造も「薪水(しんすい)」という銘柄で酒を売っていた。言うまでもなく、歌舞伎にちなんだものである。


しかし当主は、この名前は響きが女性的で、酒の銘柄としてはいかがなものか、と思い悩んでいたという。


1840(天保4)年のある日、当主が懇意にしていた住職のもとを訪ねた際、机の上にあった経典の表題に目がとまった。「臨済正宗」と書かれている。


これでおそらく、天啓を得たのであろう。早速、酒の銘柄を「正宗」と改めたところ、江戸でベストセラーとなった。


本当は「せいしゅう」と読ませる。「清酒」と語呂が合って縁起がよい、というのが当主の考えであったようだ。


しかし江戸っ子は皆、これを「まさむね」と読んだ。


推測の域を出ない話だが、有名な戦国大名で仙台藩の開祖である伊達政宗から想を得たのかも知れない。当時、仙台藩から運ばれてくる米が、江戸っ子の主食となっていた。


いずれにせよ、以降、正宗と名づけられた酒が各地の蔵元から売り出されるようになったが、明治の世となって、このことから問題が生じた。


1884(明治17)年に商標条例が施行されたのだが、元祖の蔵本は当然のように「正宗」の商標登録を願い出た。しかし明治政府は、同じ銘柄の酒が多いことを理由に、


「正宗は普通名詞である」


との判断を下したのである。やむをえず国花の名を冠した「櫻正宗」で再度出願したところ、今度は認められた。この銘柄は現在も存続している。


前後して「菊正宗」も登録されたが、同様の経緯であったことは言うまでもない。今や知名度ではこちらの方が上であろう。


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