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平成10年の年賀状②「最初の小説を出すまでの日々」

Japan In-depth / 2023年4月12日 11時44分

「どうなんだ、おい、芝田。お前が出せるっていうなら出すぞ。ウチじゃ無理、ダメだっていうんならそれでいい。ほかの会社を紹介するから。」


身を乗り出すようにして芝田さんに問いかける見城さんの態度は、小気味よいほど明確だった。具体的な他の出版社の名前もその口から出た。


「多少の修正をすれば、出せます!」


芝田さんもはっきりとしていた。もちろん、私はその場で「多少の修正」をすることに応じた。


後になって見城さんはそのときの状況を面白おかしく、なんども第三者にこう語った。


「いやあ、凄い弁護士だっていうんだよな。そういう触れ込みだった。


で、本人に会ってみた。すると、


『ボク、この小説を出せなかったら、死んでしまいます』っていう雰囲気が漂っているんだ。まるで少年のような一途さがあったな。良かった。」


47歳の弁護士であった私は、見城さんの目にはそういう風な人間に映ったらしい。もっとも小説を出してもらう人間としては、まさに少年だったのは事実だったのだが。


時の運があった。1997年はバブルの崩壊が本格化し、巨大銀行のトップが総会屋との癒着を理由に次々と逮捕されるという事態が出現した年だったのだ。逮捕の指揮を執っていたのは、私の新人検事時代の指導官だった熊崎特捜部長だった。


出版されたのは6月の定時株主総会シーズンの直前だった。もちろん幻冬舎としてそれを意識してのことだったろう。特捜部の捜査の大々的な発展とそのテレビや新聞での報道が格好の宣伝になっていった。未だSNSは存在していない。


新人作家の第一作目の出版物が何十万部と売れることは、ほとんどないだろう。私は運が良かったというしかない。「慎太郎刈り」にした頭が週刊ポストに写真として出た。私なりに石原さんの髪型にしたかったのだ。


第一勧業銀行のM会長が自死した時にはテレビ局にいた。その経緯は、最近出た『会社が変わる!日本が変わる!!』(徳間書店)の18頁に書いている。田原さんが司会のサンデープロジェクトに出演していて、その場の田原さんにテレビ会社の人からメモが渡されたのだ。


私は小説を書き始めたことでなにかを得たろうか。失ったものはわかる。時間である。それでも書かずにおられなかったのには、なにがあったのか。「戦争だ、戦争だ」という新田次郎の思いに共感しながら思いつめるようにして書いていたのは、なにを求めてだったのか。


「小説の形にまとめたい、という抑えがたい欲求が自らのうちに発生したのは、私が年齢的に若くなくなったことと関係しているのだろうと思う。『人生は移動祝祭日の連続ではありえず、必ず終わりがある。とすれば、夢中になるだけではなく、反芻してみることも、また一興ではないか』」と、私は『株主総会』のあとがきに書いている(文庫本199頁)。


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