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アメリカの感謝祭とタイタニック その2

Japan In-depth / 2023年11月26日 12時0分

会社には医者と看護婦が常駐し、社員旅行の実施、感謝祭には七面鳥の提供など、19世紀から20世期にかけて、どの会社もやっていなかったことを推し進め、従業員たちからは大変慕われた人物であった。





背景には、故国ドイツを追われ、アメリカに渡り、移住したジョージア州で一旦は事業に成功したものの、南北戦争で全てが灰燼に帰した父親の影響が大きかったと思われる。弟のネイサンと共に、社会福祉事業への関心は高かった。





弟ネイサンは、当時、殺菌が充分でない牛乳が原因の乳幼児死亡率が高かった当時、開発されたばかりの低温殺菌牛乳の事業所を設立したり、結核予防のための施設も開設したりしている。(1931年1月12日付ニューヨークタイムスの訃報記事)





1912年、イジドー・ストラウスは仕事と静養を兼ねて、妻、アイダと共に訪れていたフランスから、アメリカに帰国するため、4月10日、イギリス・サウサンプトンから出港したタイタニック号の処女航海の船客となる。





ストラウス夫妻を含め、タイタニックの事故では1,500人前後の人々が犠牲になったが、700人あまりの人々が生還している。





氷山との接触は4月14日に起きた。





沈没直前の夫妻を最後に目撃した人々の話では、高齢(67歳)とは言え、女子供を差し置いて避難ボートに自分が乗り込むことは出来ない、と先に行くように、とイジドーは妻のアイダに促した。だがアイダは、寒風吹きすさぶ中「あなたが行かないならば自分も行かない」と、着ていた毛皮のコートをストラウス家のメイドに渡し、映画とは違って甲板上で最後は二人抱き合ったまま、波に飲まれたと言う。





遭難の後の4月18日夕方。





ニューヨーク54番埠頭(Pier 54)に、生還した人々を乗せた「客船カルパチア」が到着し、悲しみの中40,000人あまりの人が出迎えたという。だがカルパチアから下船した人々の中に、イジドー夫妻の姿はなく、イジドーの死は確実となり、メイシーズの従業員はもちろんのこと、慈善家として世間にも知られたイジドーの訃報は、時間とともにニューヨークの人々に広がり衝撃を与えた。









▲写真 生存者700人を乗せて、1912年4月18日、客船「カルパチア」が到着した埠頭「Pier54」。現在では埠頭の出入り口の骨組みだけが残され、奥には観光名所の人工島が建設されている(筆者提供)









▲写真 生存者を乗せた「カルパチア号」が到着した埠頭「pier 54」に設置されているタイタニック号が描かれたアクリル板。説明など一切がない。他に「カルパチア号」とこの埠頭から出港して、戦時にUボートに撃沈された「リステニア号」の画が描かれている(筆者提供)





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