キッシンジャー氏のベトナム離脱の大失態
Japan In-depth / 2023年12月13日 23時0分
キッシンジャー氏はその時期、南ベトナムには何度か来訪したが、とくに記憶に残っているのは1972年8月のパリの帰途の立ち寄りだった。
私はサイゴン近郊のタンソンニュット空港で10数人の各国記者たちとともに同氏に接近し、質問をしたのだった。目前に立つキッシンジャー氏は微妙な笑いを浮かべていた。地面に響くように低く太いドイツなまりの声で挨拶は愛想よく述べたが、交渉の内容は語らなかった。がっしりした体躯のキッシンジャー氏の背がとても低いのにやや驚いたことを記憶している。
当事者のキッシンジャー氏は北ベトナム側との交渉についてなにも教えてはくれなかったが、その後、その実態は別の方面から明らかになっていった。まずは南ベトナム政府がもう恐怖ともパニックとも呼べる態度で情報をリークし始めたのだった。その骨子は以下のようだった。
▽南ベトナム領内で戦闘がなお続きながらも膠着した状態の下、アメリカ軍は戦闘を全面停止して、完全に撤退する。
▽北ベトナム側はその代償という形でそれまで拘束していた600人ほどのアメリカ人捕虜を釈放する。
▽だが南ベトナム領内で軍事行動を続けてきた数万、十数万の北ベトナム軍はそのまま南に残留することが認められる。
▽南ベトナム政権は北ベトナム指揮下のゲリラ勢力である南ベトナム解放戦線と政治的に同等の扱いを押しつけられ、選挙にのぞむ。
以上は要するにアメリカにとってだけの和平を意味していた。アメリカの南ベトナムに対する長年の支援の終結だったのだ。その背景にはアメリカ国内での広範な反戦世論が存在した。
アメリカと北ベトナムのこの趣旨の合意の総括は73年1月にパリで調印された「ベトナムの戦争終結と平和回復の協定」だった。この協定がもたらしたのはアメリカ軍の完全撤退とアメリカ人捕虜の帰国だけだった。ベトナムでの戦争は終わらなかった。平和も実現しなかった。
写真)パリで停戦合意に調印する、ヘンリー・キッシンジャー米特使と北ベトナム のLe Duc Tho(レ・ドク・ト)特使。1973/1/23 フランス、パリ
出典)Bettmann/GettyImages
その後の2年余、南ベトナム領内では南北両方の国家が軍事衝突を続けた。この状態は戦争の「ベトナム化」とも呼ばれた。南領内の北ベトナム軍は軍事攻勢を絶やすことがなかったのだ。真の平和は一日たりとも回復されなかった。
しかしキッシンジャー氏はこの「和平」のためにノーベル平和賞を受けた。だが交渉相手だった北ベトナム労働党(共産党)のレ・ドク・ト政治局員は受賞を辞退した。象徴的なコントラストだった。
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