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鮎川義介物語⑰岸信介だけでなく、左派の大物とも親交

Japan In-depth / 2024年1月26日 23時0分

鮎川義介物語⑰岸信介だけでなく、左派の大物とも親交




出町譲(高岡市議会議員・作家)





【まとめ】





・鮎川は総理特使として、訪米し、戦後の日米貿易の礎を築いた。





・マルクス主義の経済学者大内兵衛は、鮎川に対し尊敬の念を抱き続けた。





・鮎川は大内が勤めていた大原研究所に惜しみなく資金援助した。





 





さて、この連載の冒頭でお伝えした、昭和42年2月17日の鮎川義介の葬儀に戻りましょう。





岸信介は弔辞を続けました。





「戦後戦犯容疑でともに巣鴨に入っていた頃に散歩の時間に、私のいる獄窓の下を通る折に、連絡事項を書いたり、時には元気でいるかと書いた紙片を窓から投込んだりして、それが見付かって大目玉をくったこともありました」。





戦後鮎川と岸はともに戦犯となり、巣鴨の刑務所に入っていました。





その後、総理大臣に就任した岸は、鮎川に経済最高顧問の就任を要請。鮎川は総理特使として訪米し、アメリカの政財界の要人と会談しています。戦後の日米貿易の礎を築いたといえます。





岸と言えばバリバリの反共主義者。60年安保闘争の最大の敵とみなされ、国会が連日デモ隊に囲まれ、最終的には退陣に追い込まれました。進歩的文化人が言論界で幅を利かせる当時の風潮では、岸には悪いイメージがありました。





そんな政治家と昵懇だった鮎川です。しかし、意外な人間関係があります。





大内兵衛との親交です。大内は元法政大学学長で、戦後を代表するマルクス主義の経済学者です。岩波文化人、いわば、進歩的文化人の代表格でした。社会党左派の理論的指導者です。岸政権とは真っ向から対立する論陣を張っていました。





それなのに、大内は鮎川に対しては尊敬の念を抱き続けました。





大内は、鮎川追悼の文章を書いています。





「鮎川さんの公的な心持は崇高というより外に形容のしようがない。大原研究所は関西の財界の特異な実業家大原孫三郎の独力の公的事業であったのだが、大原さんが死んでからはその後を受けて事実上の出資者となったのは、鮎川さんであったわけだ」。





2人の関係は少し説明が必要です。大内が勤めていた大原社会問題研究所は実業家の大原孫三郎氏が設立しました。社会政策学会の左派が中心となり、戦前、軍国主義が台頭する中でもマルクス経済学の研究を続けました。この研究所は特高(特別高等警察)から、危険団体としてマークされていたのです。





この研究所はいつも資金難でした。刊行書籍などの印税だけでは、職員の給料を支払うことも困難になり、大内は旧知の経済評論家に、研究所の維持費を確保するのは困難だと相談しました。そして、蔵書の一部の売却する意向を示したのです。その経済評論家が、大原研究所の“危機”を打ち明けた相手が鮎川でした。





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