「全レース1番の単勝を買い続けた男」文人シリーズ第6回「織田作之助 競馬を愛した『夫婦善哉』の作者」
Japan In-depth / 2024年7月15日 21時36分
斎藤一九馬(編集者・ノンフィクションライター)
「斎藤一九馬のおんまさんに魅せられて55年」
【まとめ】
・昭和初期の流行作家織田作之助の「競馬」で、主人公寺田は第1レースから1番の単勝を買い続けた。
・寺田と妻一代との競馬を介した狂おしい交情が描かれる。
・競馬ファンなら読んで損はない。
人が競馬場に足を踏み入れるきっかけはさまざまあるだろう。一時期競馬から遠ざかっていた私が再び競馬場に足を向けたわけは、ある夜、次の一文に接したからだった。
「朝からどんより曇っていたが、雨にはならず、低い雲が陰気に垂れた競馬場を黒い秋風が黒く走っていた。しぜん人も馬も重苦しい気持に沈んでしまいそうだったが、しかしふと通り魔が過ぎ去った跡のような虚しい慌しさにせき立てられるのは、こんな日は競争(レース)が荒れて大穴が出るからだろうか。晩秋の黄昏がはや忍び寄ったような翳(かげ)の中を焦燥の色を帯びた殺気がふと行き交っていた。」
こんな見事な競馬小説の書き出しを私はほかに知らない。ある土曜日の夜、寝る前に何気なく書架から取り出した一冊がこれだった。翌朝、私は自宅のある大阪を出て、しのつく雨の中を競馬場のある京都の淀に向かっていた。
小説は昭和初期の流行作家織田作之助の『競馬』。雑誌「改造」(昭和21年4月号)に掲載された短編だ。いま、織田作之助といってもほとんどの人が知らないだろう。それでも関西圏の年配の人なら、『夫婦善哉』の作者、通称「織田作」だよと言えば、「ああ」と手を叩いて相槌を打つかもしれない。
小説の舞台は戦中の京都競馬場、別称淀競馬場だ。時期は文面から察するに、日本が真珠湾攻撃をしかけて太平洋戦争に突入した翌年のことであろう。
雑誌の編集者である主人公の寺田は、その日、第1レースから1番の単勝を買い続けていた。
「迷いもせず一途に1の数字を追って行く買い方は、行き当たりばったりに思案を変えて行く人々の狂気を遠くはなれていたわけだが、しかし取り乱さぬその冷静さがかえって普通でなく、度の過ぎた潔癖症の果てが狂気に通ずるように、頑なその一途さはふと常規を外れていたかもしれない。寺田が1の数字を追い続けたのも、実はなくなった細君が一代という名であったからだ。」(同書)
寺田は前年に愛妻を乳がんで亡くしていた。彼はこの日、最終レースまで1番の単勝を買い続けた。ちなみに当時の馬券は単勝式しかなく、しかも1枚20円という高額で、とても庶民が手を出せるギャンブルではなかったのである。昭和初期の1円は今の1000〜2000円(4000円という説もある)ほどになるらしい。
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