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日本の産科医療を守った「偉人」佐藤章福島県立医科大学産婦人科教授

Japan In-depth / 2024年8月25日 23時0分

日本の産科医療を守った「偉人」佐藤章福島県立医科大学産婦人科教授


上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)


「上昌広と福島県浜通り便り」


【まとめ】


・福島県立大野病院産科医師逮捕事件の解決に大きな貢献を果たした佐藤章福島県立医科大学産婦人科教授。


・佐藤教授は逮捕された教え子を支援し署名活動を展開。事件は無罪判決となり、産科医療崩壊を防いだ。


・佐藤教授は、命と引き換えに我が国の産科医療を守ったといえる。


 


 前回、2006年2月18日に起こった福島県立大野病院産科医師逮捕事件が無罪となった舞台裏をご紹介した。


 この文章が公開されると、「そんなことがあったのか。全く知らなかった」という主旨の連絡を多数いただいた。


 実は、この事件の解決に大きな貢献を果たしたもう一人の人物がいる。それは佐藤章・福島県立医科大学産婦人科教授(当時)だ。逮捕された産科医は佐藤氏の教え子だった。


 この事件は医療界に衝撃を与えた。ネットは、医師による怒りのコメントで溢れた。しかしながら、当初、医療界の重鎮たちは、当局に気兼ねしたのか静観を決め込んでいた。


 前回、私が「周産期医療の崩壊をくい止める会」の立ち上げに関わり、事務局長を務めたことは紹介した。


 この会が発足すると、別の大学の産婦人科の教授から佐藤教授の電話番号を聞き、深夜に電話した。そのときの会話は今でも覚えている。面識がない私からの電話に丁寧に対応し、「初めて本当に助けてくれるという人が出てきた。有り難い」、「私はどうなってもいいので、教え子(逮捕された医師のこと)を守りたい」と言われた。少し会話するだけで、腹が据わった誠実な人物であることがわかった。 


 余談だが、佐藤教授は、1994年に当時不治と言われた重症男性因子不妊症を、顕微授精法により我が国で初めて治療するなど、多くの医学的実績をあげている。米国医学図書館データベース(PUBMED)を検索すると、佐藤教授が多数の英文論文を発表していることが分かる。一流の医師・医学者だ。


 佐藤教授は、優しい人物でもあった。スポーツと酒を愛し、医局員に対し家族のように接したそうだ。野球が好きだった佐藤教授は、前夜にどんなに深酒しても、翌朝の練習には遅刻しなかったらしい。医局対抗野球では何回も優勝し、このような課外活動を通じ「佐藤一家」の絆は強まった。産科医師逮捕事件で佐藤教授が立ち上がったのも、このような人柄を反映している。


 話を産科医師逮捕事件に戻そう。佐藤教授は、私から連絡を受けた翌日には上京され、我々と情報交換した。そして、「周産期医療の崩壊をくい止める会」の会長を引き受け、逮捕された医師を支援するための電子署名を始めることに賛同した。


 この署名活動は、あっという間に全国に広がり、約1週間で6520人の賛同を得た。3月17日には、川崎二郎厚労大臣(当時)に面談し署名を手渡すと同時に衆議院会館にて記者会見を開いた。



写真)左から海野信也北里大学産科婦人科教授、佐藤教授、川崎厚労大臣(いずれも当時)2006年3月17日、衆議院第一議員会館にて


 佐藤教授の真摯な訴えを聞き、記者たちは事態の深刻さを認識したようだ。その後、メディアの論調が「医療ミス」から「産科崩壊」「お産難民」に変わることに、佐藤教授の存在は大きな影響を与えた。


筆者提供)


 与野党を問わず、政治家たちも問題意識を抱いた。衆院厚労委員会では仙谷由人衆院議員(当時)が質問にたち、無謀な刑事訴追が産科医療を崩壊させる危険性を主張した。その後、舛添要一氏、鈴木寛氏、枝野幸男氏らも国会質問を繰り返し、この事件は国会でも重要テーマとなった。


 佐藤教授は、その後も教え子を支えつづけた。2007年1月26日に福島地裁で裁判が始まってからは、佐藤氏は欠かさず公判に足を運んだ。そして、裁判の内容を検証し、周産期医療の崩壊をくい止める会のホームページで公開した。


 これは、メディアを通じて大きく報道され、国民がこの事件の深層を理解するのに役だった。2008年8月20日、産科医に無罪判決がくだり、世論を配慮した検察は控訴を断念、無罪が確定した。


 佐藤教授の本領はこれからだ。「周産期医療の崩壊をくい止める会の活動を、これで終わらせてはご遺族も救われない」と言って、妊産婦死亡の遺族を支援する募金活動を立ち上げた。以下は佐藤氏の言葉だ。


 「医療には限界があるという現実と、我々だってご遺族に寄り添いたいんだという気持ちを分かってもらうにはどうしたらよいだろうと考えた時、100万言を費やすより行動で示すべきだと思っていました。(中略)医師が一生懸命ミス無く医療を行っても、助けられない現実がある。それを医師にミスがあったかどうか、という次元に留まっていては、第二第三の大野病院事件が必ず発生してしまいます。」


 その後、何名かの遺族に募金が手渡された。このような活動は世界でも類を見ない。2010年、米国内科学会は周産期医療の崩壊を食いとめる会を評価し、中心的役割を果たした内科医小原まみ子氏(亀田総合病院腎臓高血圧内科部長、当時)、湯地晃一郎氏(東大医科研内科助教、当時)を特別表彰した。佐藤教授の信念は米国の医師たちにも通じたようだ。


 2009年になり、佐藤氏の癌が判明した(トップ写真)。福島県立医科大学を退官し、一人の産科医としてお産の現場で働くことを楽しみにしていた矢先だった。産科医師逮捕事件、それをきっかけとした産科崩壊が大きなストレスをかけたことは想像に難くない。


 


 2010年6月28日、佐藤教授は肺がんで亡くなった。享年66歳だった。佐藤教授は、命と引き換えに我が国の産科医療を守ったと言っていい。


 今年で佐藤教授が亡くなって14年が経つ。日本の産科医療を守った「偉人」の存在を伝え続けていきたいと思う。


トップ写真:2009年11月7日 東京大学医科学研究所で開催された現場からの医療改革推進協議会シンポジウムでの光景。闘病生活の合間をぬって、参加した佐藤章教授。抗がん剤治療のために脱毛し、帽子を被っている。


出典:筆者提供


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