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国連幻想を解析する(下)明石康氏への非難

Japan In-depth / 2025年1月15日 11時0分

問題はその地域に数千人単位の国連平和維持軍がいたのに、この激戦になにもしなかったことだった。パキスタンとマレーシアの両国軍隊から成る国連軍は米軍の支援、あるいは停戦の実施に動くべきだった。のちの国連当局による調査で平和維持軍の静観はミスだとされた。





第二は1994年4月のアフリカのルワンダでのジェノサイド(集団大虐殺)だった。





人口600万人ほどの小国だが、フツ族とツチ族とが対立を共存を繰り返していた。だが同4月、フツ族のルワンダ大統領が殺され、ツチ族の犯行だとみた多数派のフツ族が大規模な殺戮行動に出た。このツチ族への攻撃は100日ほども続いた。





その結果、ツチ族全体を抹殺するような勢いの殺戮となり、同族の死者はなんと80万にも達した。ルワンダ国民全体の7人に1人が殺されたわけだ。この大虐殺を現地にいた国連平和維持軍は止めることができなかった。というよりも止める意欲をみせなかった。





国連はその隣接の複数の国にルワンダ内戦をエスカレートさせないためのベルギー、チュニジア、ガーナの将兵計3000人ほどを平和維持軍として駐留させていた。しかしこの長期に及ぶ殺戮を制止できなかったのである。





第三は1995年7月のボスニア・ヘルツェゴビナでのセルビア軍によるイスラム系住民の大虐殺だった。





旧ユーゴスラビア連邦の解体で各共和国や諸民族が対立を険しくしていたバルカン半島で最有力国家でキリスト教系のセルビアがイスラム系のボスニアと戦闘状態に入った。優勢を続けるセルビア軍はボスニアのスレブレニツァという地域に半ば投降したイスラム教徒の男性住民10000人ほどを集めた。そしてそのうちの8000人以上を殺したのだった。





この殺戮は近代史でも悪名を高くしたスレブレニツァの大虐殺である。実はこの地域にも国連防御軍と呼ばれた部隊が駐留していた。それどころか虐殺の舞台となったスレブレニツァは国連軍の管轄下にある安全地帯ともされていた。だが大虐殺は起こった。





現地付近にいたオランダなどの国連軍は虐殺を止められなかった。さらにこの地域を管轄下においていた北大西洋条約機構(NATO)のアメリカ空軍はセルビア軍に空爆を加えて、虐殺を阻止しようとも試みた。ところが現地の国連軍に止められた。この地域のNATO軍は現地の国連防御軍の指揮下に入っており、その国連軍の最高責任者がその空爆を許さなかったのだという。





その責任者が日本の明石康氏だった。私はこの当時の詳しい状況を事件から8年後のワシントンでのシンポジウムで改めて聞いた。アメリカの当時の国連大使だったジーン・カークパトリック女史らの回顧の証言だった。同女史は「アカシ」と実名を何度もあげて、明石氏の空爆許可さえあれば大虐殺は防げた、と強調した。





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