1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 芸能
  4. 芸能総合

108歳で世界最高齢の理容師、借金返済で奉公、夫の戦死…波乱万丈の人生を支えた最後の“約束”

週刊女性PRIME / 2025年1月3日 16時0分

現役理容師としては世界最高齢108歳の箱石シツイさん(撮影/北村史成)

 サッサッサッサッ……というリズミカルなハサミの音が部屋に響く。

 ここは栃木県那須郡の山あいにある『理容ハコイシ』。見事なハサミさばきを見せるのは理容師の箱石シツイさん、108歳である。あと3か月で世界最高齢の理容師としてギネスブックに登録されるという。

ハサミは90年以上愛用

 この年になれば腰が曲がっていてもおかしくないが、背筋はしゃんとしている。ハサミは90年以上愛用するもので、女性が持つには重く扱いづらいタイプ。だが、それを一切感じさせないのだ。

「これでいかがでしょう?」

 カットを終えると、キレイに切りそろえた後ろのラインを見せながら、にこやかに客に問いかける。その表情からは、理容師としての自信がうかがえた。

 今日の客は栃木県在住の根本伸一さん(80代)。テレビでシツイさんを知り、ぜひ会ってみたいと、仕事場から車を30分飛ばしてきたのが最初。この日が5回目だ。

「最初は年齢が年齢なので、どうかなという気持ちもありましたが、いざカットしてもらったら腕は確かですね。すごい。頼んだ長さよりたくさん切ってくれるんだけど、それもご愛嬌でね(笑)」

 客は遠方から来ることも珍しくない。東京、千葉、神奈川、福島などから車で来るという。みな高齢者だ。

 栃木県内では有名な百寿者であるため、町長から推薦を受け、104歳で東京オリンピック聖火リレーに最高齢ランナーとして参加。

「やると決めてからは、あれこれ考えず、日課の体操と散歩に加えて、1・5キロの重りをつけて膝から下の上げ下げをして、ひそかにトレーニングを始めました」

 当日は強い雨の中、しっかり沿道の声援に応えて完走。

 昨年は、自身の生き方を綴った『108歳の現役理容師おばあちゃん ごきげん暮らしの知恵袋』も出版した。

 理容師歴は94年になる。穏やかな表情で客と話をするシツイさんだが、波瀾万丈の人生を歩んできた。

 結婚し2人の子どもに恵まれて間もなく、一緒に理容店を営んだ夫が兵隊にとられて戦死。生きる気力をなくし、心中寸前まで思いつめた。

 だが、「ひるまず、羨ましがらず、争わず」の「3ず」をモットーに、やんちゃな息子と障害のある娘を1人で育て上げ、多くの客から愛される理容店を続けてきた。

 その復活劇の裏には、亡き夫と最後の別れの日に交わしたある約束があった。

祖父の借金返済のため、12歳で奉公

「私が生まれた実家というのはね、昔は広い田畑を持つ豪農だったんですよ。あの時代、乳母がいるぐらいだったからね。でも祖父が道楽して散財したものだから、借金を抱えることになったんです」

 1916(大正5)年生まれのシツイさんは、家を助けるために、12歳で村長宅に奉公に出された。

「本当は和裁を習いたかったんです。和裁で身を立てようと思ってたから。ところが来る日も来る日も掃除や洗濯などの家事ばかりでね」

 2年の奉公に耐え、自宅に戻ったときに転機が訪れる。同級生の母親から「東京で理容室をやっている長女の昭子が弟子を欲しがっている」と声をかけられたのだ。

「髪形に興味があるわけではなかった。でも父親に相談したら、手に職があったほうがいいと言うわけ。父ちゃんの言うことなら間違いないと思って上京したんです」

 今の墨田区向島のあたりに「昭子理容院」があった。住み込みだったが、当時まだ14歳、すぐに故郷が恋しくなった。

「よく泣いてましたね、実家の方角を見ては。でも昭子先生は優しくてね、抱きしめて寝てくれました。『先生と呼ばないで、姉ちゃんと呼んで』と」

 先輩の弟子は2人いて、早く追いつこうと必死だった。

「昭子先生は仕事が終わると、弟子たちを街に連れて行ってくれた。私も行きたかったけど、3回に1回の割合で『疲れているから』と断って、みんなが出かけてから、練習しました」

 シツイさんは人知れず、人一倍の努力を続けた。次第に任される仕事も増え、4年修業した後、江東区の店に移る。理容師の免許を取ると、客から指名されることも増えた。その後も、自分が仕事をしてみたい店を探し出しては移り、貪欲に技術を磨いていく。

 上京から約7年後には若手の仕事をチェックする役割を任されるようになっていた。

銀座で流行! 斬新なヘアスタイル

 シツイさん考案のヘアスタイルが流行したこともある。

 1930年代半ば、銀座にあった4軒目の店にいたころ、当時外国から日本に紹介されて話題になったリーゼントにアレンジを加えた。

「前はポマードで固めて、後ろは鳥のしっぽのような形にしたんです。これが人気でね。女性客のときは、後ろを刈り上げて、サイドと前はおかっぱみたいなラインにしたら、カッコいいと話題になって。この髪形にしたいという客がたくさん訪ねてきたの。人気を知った周囲の店も同じことをやり始めました」

 抜群のセンスと丁寧な仕事ぶりが評判を呼び、縁談が舞い込んだのは22歳のときである。いつも指名してくれる女性客から自宅にも出張を頼まれるようになり、理容師の甥・箱石二郎さんを紹介された。10分ほどの会話だったが、二郎さんはシツイさんを気に入る。

「当時の私は結婚より独立して自分の店を持ちたいと思っていたんです。でも両親に報告するとその気になってしまって。ほとんど周囲に押し切られる形で結婚しましたね」

商売は発想力! 夜な夜な名刺作戦

 夫婦で新宿区下落合に理容店を開いた。住居は2階。周辺には、関東大震災を機に日本橋周辺から転居してきた問屋などが邸宅を構えていた。

 最初は客が来ず、「銀座に移ろうかと悩んでいた。しかし、持ち前の発想力で好転させる。

「チラシを配ってもお手伝いさんが捨ててしまうんですね。でも、お店の名刺を投函したら、旦那さまの机に置いてくれるんじゃないかと。仕事の後、夜10時ごろから主人と名刺を配り始めたんです。犬に吠えられたりしながらね」

 すると“熱心な若い夫婦が店をやっている”と評判が広まり、旦那衆が来てくれるようになったという。

 サービス精神旺盛なシツイさんは子どもにも人気だった。

「舌を丸めて、カエルの鳴きまねをすると、子どもたちが喜んで、『あのおばちゃんじゃなきゃイヤ!』と言うようになったんです。今は入れ歯だからできないけど(笑)」

 店は繁盛し従業員は10人に。みんなの頑張りをねぎらうため、週末の閉店後に従業員を2階の茶の間に呼んだ。

「トランプで勝った人にみかんや落花生をあげるゲームをしたんです。みんな喜んでくれてね。忙しくても、機嫌よく働いてくれましたよ」

 私生活では、'40年に長女・充子さんが、2年後に長男・英政さんが生まれたが、充子さんは生後数か月のときに高熱を出し、脳性まひに。心を痛めながらも子煩悩な夫は2人をかわいがった。営業時間内でも、客がいないと2階に駆け上がり、子どもと遊んだ。

 しかし楽しい時間は長くは続かなかった。

亡き夫に今も謝りたいこと

 シツイさんには80年たった今でも、忘れられない光景がある。'44年7月16日、夫に召集令状が届いた。3日後の出征日に見た最後の夫の姿だ。

「近所の人が見送りに来てくれたんですが、主人が家から出てこない。2階に上がったら、鼻からも目からも水が出て……服がぐしょぐしょになるぐらい泣きながら子どもたちを抱きしめていて。私にひと言だけ、『この子たちを頼む』と。優しい人でね。かわいそうでした」

 夫がようやく玄関に現れたとき、出征につきものの「万歳」と「軍歌」はなく、ひっそりとしていた。すでに日本は負けるのではないかというムードが漂っていたのだ。

 出征から半年後、夫からハガキが届いたことがあった。文面は「新宿駅12時30分通過」。車窓越しでもいいから子どもを見たかったのだろう。しかし当時の列車は超満員で、子どもをおぶって行けば、圧死する危険があった。

「夫の気持ちは痛いほどわかりました。でも、行かれなかったんです。あのとき子どもを見せてあげられなかったのが心残りで。なんで私は行ってやれなかったのか。それはずっと、今も私の中に後悔としてあります。あのときはごめんなさいねと」

 シツイさんの声が心なしか震えていた。

客を散髪中でも、息子に母乳

 '19年12月、東京は空襲が激しくなり、故郷の栃木に疎開することに。暗い山道を子どもの手を引き30キロ。実家に着くころには夜が明けていた。500キロの爆弾が下落合に落ち、店ごと吹き飛ばされたのは、間もなくのこと。

「間一髪というか、疎開を決めるのが少し遅ければ、助からなかった。『偶然は運命の可視化』という言葉が頭をよぎりました」

 しばらくは実家で葉タバコ作りなどの仕事を手伝うが、やがて近所の人が「散髪してほしい」と頼んでくるようになる。葉タバコを乾燥させる小屋に臨時の理容室をつくり、客を迎えることにした。現金がないため、畑でとれた野菜や果物が代金がわり。子育てをしながらの散髪は、時間との闘いだったという。

「英政は乳離れが遅い子でね。おっぱいをせがむので、私の父が『シズ、飲ませろ』と。お客さんに顔そりのタオルをかけて目隠ししているうちに授乳していました。それを息子は覚えていたんでしょう。しゃべれるようになって、お腹がすくと『シズ、飲ませろ』と言うようになって(笑)」

 近所の同業者から「もぐり床屋」などと陰口を叩かれ、根も葉もない噂を流される嫌がらせもたびたび受けた。

「免許証が空襲で焼けたので掲示せずに仕事をしていたんですよ。客を取られたと思ったんでしょうね。だけど、ケンカしても仕方ないからね。じっと耐えてました。みんな生きるのに大変なときでね。あちらにはあちらの事情があるでしょうから」

板切れを手に泣き叫んだ日

 戦争が終わり、シツイさんは夫の帰りを待ち続けた。だが、一向に戻ってこない。終戦から8年がたった'53年3月のこと、国から一通の郵便物が届く。封を開けると、

《箱石二郎 満州吉林省虎頭に於いて戦死 1945年8月19日》

 と書かれているではないか。

「突然のことで、何がなんだかわからない状態でした」

 長男の英政さんは言う。

「母は父の死を信じられない様子でした。しかも死んだのが終戦の日から4日後でしょ。国から連絡が届いていれば死なずにすんだ。僕は怒りが抑えられず、厚生省(当時)に長い手紙を書きました。“生きたまま返せ!”と」

 指定された場所に息子と向かうと、白い布で包まれた箱を渡された。遺骨が入っていると思い込んでいた。ところが葬儀の日、タクシーに乗ろうとして英政さんは躓きそうになり、はずみで箱の中がカラカラと妙な音を立てた。

 英政さんが回想する。

「えらく軽い音だと思って中を見ると、入っていたのは板切れ1枚っきり。俗名と死んだ年月日が書かれただけの。悔しくて腹が立って思わず板を地面に叩きつけました。“これが遺骨かよ。いたっぱち(板切れ)だよ”と」

 泣き叫ぶ息子の傍らで、シツイさんは声も出すことができなかった。

心中寸前の心を救った夫と

 その日から、ハサミを握る気力も、生きる気力も失ってしまう。シツイさんは娘の充子さんにこう言った。

「大きくしてあげられなくてごめんなさい。お母ちゃんとお父ちゃんとこに行こう」

 心中を図ろうと考えたのだ。ネズミを殺す「猫いらず」という毒を飲み、3人で死のうと。幼い充子さんは「お母ちゃんと一緒ならいいよ」と言ったが、英政さんはイヤだと言って家を飛び出し、近所の親戚宅まで助けを呼びに行った。心中は未遂に終わった。

「あのころの母は何を言っても反応がなかったですね。その後もずっと雨戸を閉めたままでね。暗い部屋の中にぽつんといるんですよ。また猫いらずを姉と2人で飲んじゃうんじゃないかと毎日、気が気じゃなかったです」

 未遂から1週間後、英政さんが学校から帰ると、雨戸が開け放たれ、部屋の中に光が差し込んでいた。シツイさんは明るい表情で言った。

「お母ちゃん、お店出すよ」

 そしてこう続ける。

「お父ちゃんの言葉を思い出したんだ。兵隊に行くとき、かなりお金を残してくれたんだ。そのお金は全部使ってもいいから子どもたちだけは頼むと。心中するのは、お父さんとの約束を破ることだ。だからお店出して、頑張るよ」

 '53年8月、新しい場所で『理容ハコイシ』を開店。店には5年前に取り直した理容師免許証が掲げられた。この免許証にはシツイさんの技術の高さを物語るエピソードがある。英政さんが明かす。

「母の実技を見た試験監督が、絶賛したんです。『この人の右に出る者なし』と。そのあと試験監督自らカットモデルになり、母がカットするところをその日の受験者に見学させたそうですよ」

商売上手! お小遣い作戦で繁盛

 シツイさんは技術力にあぐらをかかず、地域の人が店に来やすいよう営業した。

 田植えの時季には朝6時から店を開け、夜は仕事終わりの人でいっぱいになるため、夜10時ごろまで営業した。

「理容師組合の規則では、営業は朝8時から夜8時までと決まっていたんですが、お客さんの都合に合わせようとすると、仕方なかったんです。大みそかなどは元日の朝まで仕事していましたよ」

 シツイさんは機転の利いたサービスでも客を喜ばせた。「“お駄賃”を子どもにあげたんですよ。散髪代が500円としたら1割の50円をお小遣いとしてね。駄菓子で自分の好きなものを買えるでしょ。大人にもあげましたよ、お駄賃。いくつになってもお駄賃はうれしいものですよ」

 いわゆる「キャッシュバック」だ。シツイさんは、人は何をされたら喜ぶかをいつも考え抜いていた。

 その結果、客が絶えない人気店になったが、忙しくて家事や食事の時間は十分に取れない状態だった。それを支えたのが長男の英政さんだ。

 料理は肉じゃがなどの煮物や、焼き魚などを作った。母親に教わったわけではなく、親戚の家に行ったときに味見をさせてもらい舌で覚えた。

「昼ごはんは、ヒゲそりの前の蒸しタオルをかけている時間に、ササッと食べてましたね。英政が店の窓をトントントンと叩いて『昼ごはんできたよ』と合図してくれて。うどんとかすぐに食べられるものが多かったです」

 大変だったのは水くみ。戦後長く、水道が完備されなかったので、50メートルほど離れた場所に湧き水をくみに行き、バケツで18往復ぐらいした。家の前にある小学校で英政さんが野球をしている最中でも、シツイさんが「英ちゃーん、水お願い」と頼み、泣く泣く練習を中断することもよくあった。

悪事は成敗! 厳しすぎる子育て

 それだけを聞けば、親の仕事を手伝う立派な息子、ということになるが、いたずら盛りの幼いころはしつけに手を焼いた。

 例えば4歳のときの“どぶろく事件”。どぶろくという自家製のお酒が入った瓶を勝手に開けて飲み、酔っ払ったところを近所の女性に保護され、背負われて帰宅。激怒したシツイさんは、息子を氷の張った池にドボン! その上、尻を何発も叩いた。

 “借金事件”もあった。英政さんが母親からお使いを頼まれ、そのおつりで勝手に買い物をし、バレるのがマズいと思って親戚から50円借りたのだ。返してくれないことを親戚がシツイさんに伝えると、怒りが爆発。高い橋の上に連れていき、30センチは積もる雪の上で正座をさせた。

「そんな悪い子は、この橋から飛び降りて死んでしまいなさい。世間に迷惑をかける人になっては困るから。1人が怖いのなら、お母ちゃんも一緒に飛び降りてあげる」

 英政さんは何度も「もうしません」と謝るが、なかなか許してくれなかった。縄でぐるぐる巻きにされることもたびたび。厳しいしつけの裏にはシツイさんの信念があった。

「父親がいない家だから、子どもがあんなふうになるんだと言われないように、厳しく育てようと思っていたんです」

 シツイさんには息子に理容店を継いでほしいという願いがあった。だが、息子は「ごはんもゆっくり食べられない床屋はイヤ。早稲田大学を受けさせてほしい。ダメなら床屋になる」と言った。

「英ちゃんがいなかったら、店は続けられなかった。だから大学に行きたいなら、お金を出してあげようと、それまで以上に働きました」

 英政さんは猛勉強の末に早稲田大学に合格。テレビ局などで働き、80代でリタイア後も、健康茶の製造・販売で独立起業するなど、ひるまず、人生の挑戦をしてきた。

母と娘の衝突、障害と自立

 一方、長女の充子さんへの子育てはどうだったのだろう。

 充子さんが1人暮らしをする市営住宅を訪ねた。玄関を入ると、自身で編んだというワインカラーのセーターを着た充子さんが車椅子で迎えてくれる。

「いらっしゃい」

 傍らには24時間交代制で身の回りのサポートをしてくれるヘルパーがついている。

 シツイさんによると、充子さんの子育ては試行錯誤の連続だった。障害のある充子さんの通学を学校が認めなかったため、家で勉強させながら、ひとつでも「できること」を増やそうと努めていたという。

 幼少期の母との思い出を充子さんはよく記憶している。

「母は私が起きる時間には仕事をしていて、一日中立ちっぱなし。夜に『リア王』『小公女』『ピノキオ』などの絵本を読み聞かせてくれました。毎晩、川の字になって、真ん中にお母さん。でもお母さん、疲れているから、途中で寝てしまって、何度読んでも、絶対に最後までいかないんですよ。おかげで何とかして続きが知りたいから、必死で文字を覚えたんです」

 充子さんがケラケラ笑う。

 計算の勉強は店に関わる数字が題材だった。

「母は家計簿をつけていて、今日お客さんが何人来て、売り上げがどれぐらいかを足し算するんですが、そのとき私も一緒に計算しました。お母さんが働く姿をそばで見ながら、いろんなことを教わりましたね」

充子さんは千葉の福祉施設へ

 20歳のとき充子さんは家を出て、千葉の福祉施設に入所する。シツイさんは猛反対したが、決意は固かった。

「長く障害のことでいじめられたので、自立したかった。そのためには手に職をつけなければいけないでしょ。それで編み物を習おうと思った」

 10年間親元を離れ、娘がたくましくなったことにシツイさんは驚かされた。充子さんが家を出ることは冒険のようにも感じるが、シツイさんも若いころは独立心旺盛だった。2人は似ているのだ。

 充子さんは30歳で千葉から栃木に戻り、宇都宮の施設で暮らす。そこで脳性まひ者の当事者団体『青い芝の会』と一緒に運動を展開していく。

 当時は障害のある人が思うようにバスに乗れなかったので、バスに無理やり乗る活動を行った。また、年金を上げたり、バリアフリートイレを駅の近くに設置するよう求め、県庁で座り込みもした。

「そういう運動に、お母さんは反対でしたね。でも私たちは声を上げなければ気づいてもらえないし、わかってもらえないし、社会は変わっていかないから。例えば、買い物に行くときも派手な服を着て、棚の上の商品が取れないときは、大声で手伝いを求めます」

 泣き虫だった充子さんの性格は、活発に変化していく。

 48歳のとき、宇都宮市で1人暮らしを始めた際も、宇都宮大学の校門に1人で出向き、身の回りのサポートをしてくれるアルバイトを募集。手作りのチラシに“食事を作ることも、掃除も洗濯もできません”と書いて、学生に配った。人懐っこい性格の充子さんは、どんどん支援者を増やしていく。

「次の講義までの30分の空き時間でもいいし、野菜を切りに来るだけでもいい、と話しかけたりしました。これまで出会ったボランティアは400人以上。私の宝です」

 スウェーデンやオーストラリアなど海外をはじめ、日本各地に旅行にも出かけた。

 ただ、やり残したこともある。それは結婚だ。母、シツイさんからは、「しないほうがいい。苦労をするから。もし結婚しても子どもはつくらないほうがいい」と言われていた。

「でもね、子どもは誰にでもつくる権利がある。恋をする権利だってある。花だって花を咲かせるのに種をまくでしょ? 反対する母の横顔に『私もひとりの人間。お母さんだって、お父さんとそういうことをしたから、私が生まれたんでしょ』と訴えました」

 わが子を傷つけたくない母と自立を望む娘の衝突はたびたび起こった。でも、体調を崩して心細かったとき、母親がケアしてくれたことは忘れない。

「20代のころ、肝臓を悪くして入院したことがあったんです。母は毎月最終の月曜日に宇都宮の病院に来て、水曜日、朝のバスで帰るんだけど、片道2時間半かかるから大変だったと思う。それを8か月続けてくれて心強かったです」

108歳、ギネス挑戦へ

 シツイさんは子どもたち2人の生きざまを誇りに思っている。

「こんなに苦労した親子はほかにあんまりいないんじゃないかな。ひでちゃん(英政)は世話した以上の孝行息子になったし、みっちゃん(充子)の強さと行動力は、私の想像をはるかに超えました」

「ひるまず、羨ましがらず、争わず」。自らの経験から子どもにたびたび話してきた「3ず」の教えは、2人の生き方にも受け継がれていた。

 昨年11月、108歳の誕生日には、親子3人でお祝いをした。現在も、週に1~2人の髪を整えているという。

「ギネス登録という新しい目標ができたので、これからも仕事は続けます」

 度重なる苦難があったにもかかわらず乗り越えてこれたのは、ただひとつの言霊─召集される日に夫、二郎さんと交わした約束があったからだ。

「この子たちを、頼む」

 インタビューに答えるシツイさんの後ろでは、二郎さんの遺影が見守っていた。写真の中の夫はずっと年を取らず20代のまま。優しそうな表情を浮かべる。

「今でもね、帰ってくるんじゃないかと思っているんですよ。どこかの農家のお手伝いでもして命を延ばしてね」

 真剣な顔でシツイさんは語る。いつか帰ったときに「よくやった」と褒めてもらえるよう、今この瞬間も懸命に生きているのかもしれない。

<取材・文/西所正道>

にしどころ・まさみち 奈良県生まれ。著書に、東京五輪出場選手を描いた『東京五輪の残像』、中島潔氏の地獄絵への道のりを追ったノンフィクション『絵描き・中島潔 地獄絵一〇〇〇日』など。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください