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昭和だとしても「アウト」! 『宇宙戦艦ヤマト』西崎義展氏の不適切すぎた生涯

マグミクス / 2024年5月6日 21時55分

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■『宇宙戦艦ヤマト』の初航海から50年

 西暦2199年、人類の命運を託された宇宙船がはるかマゼラン星雲にあるイスカンダル星を目指し、地球から旅立ちました。SFアニメの金字塔となった『宇宙戦艦ヤマト』(日本テレビ系)の放映が始まったのが、1974年10月6日、日曜の夜7時30分です。太平洋戦争で撃沈した戦艦大和が、宇宙船に改造され、人類を救うために大宇宙へ繰り出すという破天荒なストーリーに、多くの人が魅了されました。

 2024年は『宇宙戦艦ヤマト』のTV放映から50周年にあたることから、さまざまなイベントが組まれています。リメイクシリーズ『ヤマトよ永遠に REBEL3199』の第一章「黒の侵略」が7月19日(金)より上映され、庵野秀明監督が「企画・責任編集」した『宇宙戦艦ヤマト』画集などの出版も予定されています。

 現代まで続くアニメブームの発火点となった『宇宙戦艦ヤマト』を語る上で、忘れられないのが西崎義展(にしざき よしのぶ)プロデューサーです。数々の逸話を残した西崎プロデューサーとは、どんな人物だったのでしょうか。

■いつも「プライベート秘書」をはべらせていた!?

 西崎プロデューサーほど毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人物は、日本のアニメ界では珍しいといっていいでしょう。元々は音楽畑のプロデューサーで、歌唱ショーなどの地方公演を手掛けていました。創価学会系の音楽文化団体「民音」にパイプを得て、手広くビジネスを広げた西崎プロデューサーでしたが、金銭トラブルから欧州に逃亡。帰国するも音楽業界には戻れず、黎明期だったアニメ界に潜り込みます。その入り口となったのが「虫プロ」の子会社「虫プロ商事」でした。

 子供たちに夢を与えるようなアニメづくりに勤しむ人たちが多かった1970年代のアニメ界において、西崎プロデューサーは異質な存在でした。TV局員を銀座の高級クラブで接待し、裏金を渡すこともあったようです。成功のためなら手段を選ばない男でした。交渉術に優れた西崎プロデューサーは、手塚治虫原作の『ワンサくん』や『海のトリトン』のTV放送を次々と決めていきます。

 そして倒産寸前だった「虫プロ」で、ベテランアニメーターの山本暎一氏と連名で企画した『宇宙戦艦ヤマト』を、読売テレビに売り込み、自身が立ち上げた会社「オフィス・アカデミー」でのTVアニメ化に漕ぎ着けます。西崎プロデューサーのアシスタントを務めた山田哲久氏とフリージャーナリストである牧村康正氏の共著『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』(講談社)には、西崎プロデューサーの素顔が詳細に描かれています。

『ヤマト』の成功で富と名声を手に入れた西崎プロデューサーは、豪華クルーザーや高級車を乗り回すだけでなく、プライベート秘書と称して容姿の優れた女性秘書を多数採用。その多くは、既婚者である西崎プロデューサーの愛人になったそうです。コンプライアンスという言葉がなかった時代でも、これは「アウト」でしょう。

■『ヤマト』で稼いだ巨額の収益は、すべて散財

著:豊田有恒『「宇宙戦艦ヤマト」の真実』(祥伝社新書)

 若い頃は役者を目指していた西崎プロデューサーは見栄えがよく、『宇宙戦艦ヤマト』の敵役「デスラー総統」に似ていることを自負していました。押しの強い発言で、プレゼンが得意でした。

 才能のある人物を見抜く、目利きにも優れていました。人気作曲家の宮川泰氏を招き、『ヤマト』の名曲の数々を生み出させています。富野由悠季監督や安彦良和氏の力量も、早くから認めていました。行動力と、優秀なスタッフのブッキング能力のあるプロデューサーだったことは間違いありません。

 SF作家の豊田有恒氏も、西崎プロデューサーのブレーンのひとりでした。異星人の攻撃を受け、絶滅寸前の地球を救うために宇宙船が遠い異星を目指すという『ヤマト』の基本設定は、豊田氏の発案でした。しかし、豊田氏は『ヤマト』の裏番組『猿の軍団』(TBS系)の原作者に名前を連ねていたことから、『ヤマト』では「原案」ではなく「SF設定」という扱いに甘んじています。

 第1作以降も豊田氏は西崎プロデューサーから頼まれ、「沖田艦長を甦らせるにはどうすればいいか?」など、さまざまなアイデアを提供しています。ところが、西崎プロデューサーは、いつも約束したギャラの半分しか銀行に振り込みません。ずいぶん経ち、残りのお金が振り込まれたと思えば、西崎プロデューサーから「次はどんな設定にすればいいかな?」と相談の連絡が入ったそうです。せこいというか、巧妙というべきか……。

 豊田氏は著書『「宇宙戦艦ヤマト」の真実』(祥伝社)で、こう語っています。

「おおよその原作者である松本零士さえ、見合った収入を得ていないという。これは驚くべきことだった。西崎は、『宇宙戦艦ヤマト』が生み出した2百億とも3百億ともいわれる巨額の収入を、女に、ヨットに、バイクに、車に、すっかり蕩尽してしまったことになる」

■実写版『ヤマト』の原作料2億円で購入したものは?

 時代の寵児(ちょうじ)ともてはやされた西崎プロデューサーでしたが、『ヤマト』以外のヒット作は生まれず、脱税、会社の倒産、覚醒剤使用、銃器の所持……と悪名をとどろかせることになります。刑務所からの出所後、みずから監督した『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』(2009年)を公開しますが、再浮上は叶いませんでした。

 2010年12月10日、遊泳中の船「YAMATO」から転落し、西崎プロデューサーは75歳の生涯を終えています。「YAMATO」は実写映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(2010年)の原作料2億円で購入したものでした。まさに『ヤマト』と運命をともにした人生でした。

 西崎プロデューサーを、「山師(やまし)」のようだったと評する声があります。西崎プロデューサーが山師なら、子供だけでなく大人も楽しめる「アニメーション」という大鉱脈を掘り当てたことになります。ヤマトが金塊にばけ、西崎プロデューサーの人生は大きく変わり、傲慢なモンスターになっていったようです。

 しかし、西崎プロデューサーがいなければ私たちが知っているような『ヤマト』は誕生せず、日本のアニメシーンもずいぶんと違ったものになっていたでしょう。ひとりの山師が見たつかの間の夢から、日本のアニメの歴史は始まったのかもしれません。

(長野辰次)

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