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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第44回 【茂吉】文字と文字盤(1) 酷評

マイナビニュース / 2024年6月25日 12時0分

中田の述懐のように機械工作上の不備への指摘もあったが、5社から「実用に不十分」といわれた大きな理由は、第一に文字 (文字盤) の欠点、第二にルビ印字不能だった。ルビについてはまったくの手抜かりだった。当時、ほとんどの新聞雑誌にはルビがふられていたのだが、茂吉自身がその重要さを察知できず、軽くかんがえすぎていたのだ。

こうした不備と欠陥から、5大印刷会社は各社とも邦文写真植字機の使用を中止した。5台の機械は結局1933年 (昭和8) ごろまで、各工場の隅に埋もれたままになってしまったのだった。[注3]
○最初の文字盤「試作第1号機文字盤」

ふりかえると、茂吉はじつのところ、1925年 (大正14) 秋に試作第1号機を完成して以降、自分たちが用意した文字盤、そして文字に問題意識をもち続けていた。文字盤は、茂吉がずっと担当してきた。はじめて文字盤をつくったのは、1925年 (大正14) 秋に発表した試作第1号機のときだった。本稿では「試作第1号機文字盤」と呼ぼう。

本連載第29回、第30回でもふれたように、最初の「試作第1号機文字盤」は、秀英舎を中心とした活字の清刷りから約3,000字を湿板写真で1枚のガラス板にとったものだった。いわば、清刷りをそのまま複写したものである。[注4]

茂吉は邦文写真植字機開発に関わるまで、印刷や活字書体についての経験がまったくなかった。文字盤をつくるにあたっても、すでに活字書体というものが世にあるのだから、そんなにむずかしいことではないだろうとおもっていた。

ところが、いざ活字の清刷りから文字盤をつくってみると、とても使えたものではなかった。機械の精度からくる字並びの悪さもあったが、「試作第1号機文字盤」はなにより、文字の形そのものが崩れたり、つぶれたりしてしまっていた。活字の清刷りをそのまま撮影して文字盤をつくっていたからである。

このころの活版印刷にもちいられた活字は、種字彫刻師が手彫りする「種字」をおおもとの型として母型 (鋳造するときの文字の型) をつくる「電胎母型の時代」だった。使用する活字と同じ大きさ (原寸) 、鏡文字の状態で、ひとが手で彫った種字を型にしていたのだ。 使用するすべての文字、すべての大きさの種字が必要だった。

つまり当時の活字は、「あくまでもそのサイズで印刷する文字」として、原寸使用を前提に形がつくられたものだった。いっぽうの写真植字は、文字盤の文字をレンズで拡大縮小することにより、印字の大きさを変化させることができた。文字盤の文字より縮小するだけならともかく、拡大したときにもきれいな文字を得るには、「原寸使用を前提に製作された活字」をもとにしていてはむずかしい。しかも、複製元の原稿は「清刷り」、つまり印刷物である。

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