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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第56回 【茂吉と信夫】海図専用機の設計依頼

マイナビニュース / 2024年12月17日 12時0分

「おもしろい。やりましょう!」

設計図は、信夫が作成することになった。信夫は夢中になり、献身的ともいえる努力でこの設計に取り組んだ。 [注5]
○信夫不在のあいだに

信夫は明けても暮れてもあたらしい機械のことをかんがえた。寸暇も惜しみ、娯楽のかけらもなく研究に没頭する生活を送るうち、彼はいつしか30歳を超えていた。 [注6]

郷里の両親は信夫のことを心配し、彼の嫁を探した。ようやく良縁があり、1931年 (昭和6) も押しせまった12月23日、信夫は結婚するために明石に帰郷した。 [注7]

妻・重子は、明石で江戸時代からつづく老舗和菓子店・人丸堂の娘だった。信夫より5歳下の1906年 (明治39) 1月15日生まれ。自然とまわりに人があつまるような、やさしい女性だ。どういういきさつで信夫との縁談がもちあがったのかはわからない。しかし両家はご近所だった。 [注8]

ぶじに結婚式を終え、一段落した信夫は、重子を連れて帰京した。ふと見まわすと、工場の様子がおかしい。工場にあった数台の写真植字機の姿が見えないのだ。

「機械はどうしたんですか」

たずねると、茂吉は

「財政上やむをえず、機械を売ったんだ。了解してほしい」

とだけ答えた。

自分が留守にしているあいだに、なぜ。

ただでさえこの1931年 (昭和6) は、夏に石井茂吉に対して恩賜発明奨励金があたえられたことで、茂吉のみが発明者としてメディアに出ることが増え、信夫のなかにもやもやした気持ちが芽生えていた。自分のいないあいだに機械を売ってしまった茂吉が、信夫には独断的に見えた。

「協同事業とは内部でのみ通用することなのか。自分が工場のなかで、つぎつぎと機械の問題を解決し、その改良にふけっているあいだに、外部的なことは石井さんが専行し、世間は世間で、工学士の肩書をもち、自分より14歳上の石井さんを主人公視して、ぼくの存在を知るひとはすくない……」 [注9]

言い訳を潔しとしない茂吉は、必要最小限の説明以外に言葉を重ねない。信夫の心に巣食った不信感は、おおきくふくらんでいった。

(つづく)
(次回は2025年1月7日に掲載予定です。)

出版社募集
本連載の書籍化に興味をお持ちいただける出版社の方がいらっしゃいましたら、メールにてご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。
雪 朱里 yukiakari.contact@gmail.com

[注1] 海軍水路部への2台目の納品日は、1931年 (昭和6) 3月12日に海軍水路部と写真植字機研究所のあいだに交わされた購買契約書を参照した (本連載第43回 「海軍水路部からの注文」 https://news.mynavi.jp/article/syasyokuki-43/ 参照) なお、森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.20には〈それは昭和六年の初め頃だったと思う〉と記述されているが、海図専用写真植字機の設計依頼は2台目納入のあととかんがえるのが妥当とおもわれるため、本稿では『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.114〈(前略) 水路部では良好な実績をあげていたので、続いて二台目を増設したが、それからしばらくして、こんどは海図用の写真植字機をつくれるかといってきた〉の記述に依った。

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