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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第58回 【茂吉と信夫】決裂

マイナビニュース / 2025年1月21日 12時0分

画像提供:マイナビニュース

フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○はずれた歯車

茂吉と信夫、ふたりのあいだにできた溝は、埋まりようもなく深まっていった。

信夫はかんがえていた。そもそも、1924年 (大正13) 12月15日に契約書を交わしたとき、写真植字機が完成したら、印刷所を設立する約束だった (本連載 第26回「交わされた契約書」参照 )。しかし信夫が小型オフセット印刷機の開発にはげんでも (本連載 第37回「わずかな食いちがい」参照 )、茂吉はいっこうに印刷所を設立しようとはしなかった。今回は、自分が留守にしているあいだに、写真植字機を勝手に処分されてしまった。新規の写真植字機の注文は来ない。はたして自分は、写真植字機研究所にいるべきなのか。

茂吉は、契約書を結んだ当初は印刷所の設立に賛同していたものの、いざ写真植字機開発を始めてみて、そのかんがえをあらためていた。経済的に困窮するなかで、写真植字機もオフセット印刷機もどちらも開発するほどの資金はない。しかも、自分たちは印刷の素人である。数十年の実績をもった印刷会社が数多くあるなかで、写植機すら完成していないのに、印刷業界に入り込むことはむりなのではないか。

しかしそう思いつつも、寡黙な茂吉は積極的に自分のかんがえを信夫に伝えるわけではなかった。茂吉は「至誠通天――誠を至せば必ず天に通ずる」を信条としていた。 [注1] だから信夫に対しても、「いま伝えなくても、いずれわかる時がくるだろう」とおもい続けていた。

ひらめきをもち、おもいついたら即行動したい若き信夫と、熟考を重ね慎重に物事を進める茂吉。互いにないものをもつことが、ふたりを名コンビにしていたはずが、噛み合わなくなった歯車は、ずれていくいっぽうだった。

写真植字機の発案は自分だという自負をもち、負けん気の強い信夫が、茂吉の名だけが発明者として有名になっていく状況に耐えられなくなったのも、むりのないことだった。

写真植字機は、信夫にとって我が子のような存在である。その子を残して写真植字機研究所を去るのは、心が痛む。しかし注文が途絶えたいまこそ、自分の去るときではないか。
信夫は茂吉と袂を分かつ決意をした。

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