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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第58回 【茂吉と信夫】決裂

マイナビニュース / 2025年1月21日 12時0分

「石井さん。私は、大阪に行きます」

茂吉は残念におもったが、去る者は追わずの心境で、信夫の申し出のとおり、映画タイトル (字幕) 専用機1台と写真植字機1台を渡して送り出した。

信夫は、大阪で写植印字を引き受ける店をやろうとかんがえていた。郷里の両親から旅費を送ってもらうと、妻と1932年 (昭和7) 10月13日に生まれた長男・公雄とともに、悄然として東京を引き揚げ、大阪に向かった。1933年 (昭和8) 春のことだった。

○写真植字業を始めるも

1933年 (昭和8) 6月、『印刷雑誌』16(6) 昭和8年6月号 (印刷雑誌社) に、ちいさな記事が出た。「森澤氏が大阪に 写真植字機工場」と題されたその記事は、こんな内容だった。

〈石井茂吉氏と共に邦文写真植字機の発明者として知られた森澤允雄 (旧名信雄) 氏は、同発明も略ぼ完成したるを以て、関西方面に於る同機の利用宣伝のため、五月下旬大阪市浪花区元町一丁目七四六番地に独立、一工場を新設して、同機による一般写真植字業を開業した〉[注2]

こうして写植屋を開業した信夫のもとには、ほどなくして大阪毎日新聞の活映部から映画タイトル (字幕) の印字注文が入った。注文は毎週継続して入ったため、当座をしのぐことができたが、1年ほどで活映部が廃止になってしまった。

これにともなって信夫の写植屋の仕事もぱったりとなくなってしまい、しかたなく信夫は店をたたむことにした。写真植字機とタイトル専用機、付属品一式は茂吉に返送した。代金として茂吉から3,000円が送られてきたので、郷里明石にある妻・重子の実家にひとまず身を寄せることにした。

もはや、信夫の手元に残ったものは、ほとんどなにもなかった。

「大阪の小さい店は失敗したが、日本ではじめて写真植字機をつくったのは自分なのだ。実用機を世に出したのは、自分たちが世界で一番早かったはずだ」[注3]

信夫はそう自分自身をなぐさめながら、再起のときをうかがった。[注4]

(つづく)

出版社募集
本連載の書籍化に興味をお持ちいただける出版社の方がいらっしゃいましたら、メールにてご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。
雪 朱里 yukiakari.contact@gmail.com

[注1] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.124

[注2]『印刷雑誌』16(6)、印刷雑誌社、1933年6月 p.60なお、森澤信夫は一時期、その名に「允雄 (のぶお)」の表記をもちいていたが、その詳細時期や理由は不明。通称として使用していたものとおもわれる (取材協力:モリサワ)

[注3] 森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.22

[注4] 本稿は森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 pp.21-22、馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 pp.126-127、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.125-129をもとに執筆した。

【おもな参考文献】
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
『印刷雑誌』16(6)、印刷雑誌社、1933年6月

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影
(雪朱里)



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