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大人のインフラ紀行 第10回 東京湾の歴史的な軍事インフラ、水平線の彼方に浮かぶ第二海堡を訪れて思ったこと

マイナビニュース / 2025年1月28日 7時0分

以上、当時の最先端技術を駆使し、難工事のすえに造られた3つの海堡は、最初で最後の人工島要塞となった。このうち保存と観光利用が進み、現在では民間の旅行会社が主催するツアーに参加すれば、誰でも内部に足を踏み入れられるのが第二海堡なのである。
○三笠ターミナルから第二海堡へ

三笠ターミナルから第二海堡までは、およそ30分の船旅。航路は1日に500隻もの船が行き交う日本の物流の大動脈、東京湾中央航路・浦賀水道を突っ切っているので、タンカーや漁船、客船、貨物線など、数多くの船を見ることができた。

自衛隊と米軍が利用する横須賀港も近く、護衛艦らしき船影や潜行前の潜水艦が見えたりしてワクワクする。

そして程なく、目的地である第二海堡に到着した。

着船場から島内に伸びる階段横には、崩れたコンクリートや瓦礫が転がり、なかなか凄まじいところに来たのだということをのっけから実感できた。

ガイドさんの案内で階段上から右に進むと、目に入ってきたのは煉瓦造りの遺構だった。114メートル続くイギリス積みの擁壁。奥には、アーチ形の入り口を持つ掩蔽壕(えんぺいごう)が並んでいた。

掩蔽壕とは、敵の攻撃から人や物資を保護するための施設である。

第二海堡の建造物は砲台以外のすべてが地下に造られており、掩蔽壕の奥は地下通路につながっている。ここに駐屯した兵士は、地下の通路を使って兵舎や砲塔などの各施設へ移動していたのだ。

擁壁および掩蔽壕の横壁は、一列ごとに大小の煉瓦を交互に積み重ねた“イギリス積み”という方式で造られている。使われている煉瓦は、通常よりも高温で焼くことで耐水性能を高めた、通称「焼き過ぎ煉瓦」。

触ってみると普通の煉瓦よりも密度が高く、スベスベとした感触。100年以上も雨風や海水にさらされていたとは思えないほどキレイなのが印象的だった。

第二海堡の建設に使用された煉瓦は当時の国内窯業の粋を集めたものであり、おもに刑務所だったという製造元を示す刻印が一つ一つに施されている。

その刻印は煉瓦を積み重ねる面に入れられているため通常は見られないが、第二海堡の建物は至るところが崩れているため、珍しい刻印を確認できることがある。それもまた第二海堡の見所のひとつとなっていた。

○明治から大正にかけての要塞建設

明治から大正にかけて陸軍に君臨した山縣有朋は1871年(明治4年)、『軍備意見書』を提出し、日本列島の要塞化を主張。

1873年(明治6年)から1875年(明治8年)にかけて、招聘したフランス軍将校らに東京湾を視察させ、東京湾の防御法案を策定した。この案が、第二海堡を含む東京湾要塞建設の基礎となっている。

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