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大人のインフラ紀行 第10回 東京湾の歴史的な軍事インフラ、水平線の彼方に浮かぶ第二海堡を訪れて思ったこと

マイナビニュース / 2025年1月28日 7時0分

東京湾要塞とは、首都東京および横須賀軍港を守るため、東京湾口部に建設された砲台群を指す。建設は、1880年(明治13年)の観音崎第二砲台から始まり、千葉県の内房や神奈川県の横須賀、三浦の沿岸部などに24台の砲台が築かれた。そして翌1881年(明治14年)、第一海堡の建設も開始されたのである。

沿岸に大量の砲台を築くのに、なぜ海の真ん中に人工島まで造らなければならなかったのかというと、当時の陸軍が所有していた大砲の有効射程距離がせいぜい3kmだったからだ。東京湾で陸地間の距離がもっとも狭い富津〜観音崎でも約7kmあるため、敵の艦船が湾の真ん中を航行すると、両岸から発砲しても届かなかったのだ。

明治時代最大・最難の土木工事のすえ、トータルで約40年をかけて完成した3つの海堡は、近代要塞砲台建設の先駆けとなった。

完成した海堡には陸軍兵舎や砲台が建設され、自然島である猿島とあわせて、東京湾口で円弧状に展開する首都防衛ラインの一環として運用された。

○海堡の上部構造物とその変遷

海堡の上部構造物は、火に強く頑丈で取り扱いやすかった煉瓦と、当時の最先端建材だったコンクリートやモルタルがふんだんに使われた。

しかし風や波の影響は予想以上に大きかったうえ、1923年(大正12年)に発生した関東大震災による鉛直的な力と地盤沈下には備えがなかったため、砲台のコンクリートが割れたり傾いたりするなどの大きな被害を受けた。

しかもそのころには大砲の性能が上がり、射程距離も延びたことから、海堡の存在意義自体が薄らいでいた。戦闘の主力も艦船から航空機へと移行してきたため、震災で壊れた構造物は修復されることなく、海堡は実戦では使われないまま陸軍の手を離れることになった。

完成当初は主力の27cm加農(カノン)砲 塔砲(とうほう)をはじめ、27cm加農砲隠顕砲(いんけんほう)、15cm加農砲塔など最新鋭の武器が配備された第二海堡だったが、震災後は陸軍から除籍された。

しかし海の真ん中という立地に目をつけた帝国海軍が陸軍から海堡を借り受け、航空機を狙う高角砲や、潜水艦の航行を察知するための水中音響訓練所、また海面に配置した水雷を監視し、起爆させるための水雷衛所などを設置して運用を継続する。

そして太平洋戦争終結後の1945年(昭和20年)8月30日、上陸した連合軍の兵士により海堡は武装解除され、軍事要塞としての機能を完全に終えたのである。

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