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藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 #33 君の終わりのはじまり

NeoL / 2021年10月14日 17時0分

藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 #33 君の終わりのはじまり



絶対は、ない。
久しぶりに見ていたテレビの画面で、七十代の袴姿の武術家が歯切れ良くそう言った。典子は、その男の姿勢の良さと声の良さに惹かれつつ、「絶対は、ない」と声に出してみた。なんだか懐かしい響きがある。ずっと前に、この言葉を誰かに伝えたような気がするが、いつのことか、相手は誰かが思い出せそうになかった。
絶対は、ない。
つまり、この世界は、常識外、想像外のことがたくさん起こるということだ。だが、自分が空を飛べるとは典子には思えず、所詮言葉だよな、と思いかけた時、ひらめきのようなものが降りてきて、典子はその眩しさに目を閉じた。
空を飛べるという概念の外に出ることで、空を飛べるのではないか。つまり肉体を離れて意識を飛ばすことを、空を飛ぶと認識できるなら、それは空を飛んだことになる。だが、この肉体を鳥のように実際に舞わせるということに限定するならば、それはそもそも設問自体に絶対を絶対にさせる重力を与えているのではないか。
ふむ。典子は、ふむ、と声にした時の口内の残響にしばし気を逸らされた。


絶対は、ない。
トシオも、別な場所で同じ番組を見て、その言葉が引っかかった。そしてなぜか故郷を思い出したのだった。
トシオの故郷は淡路島だった。95年の夏に南淡路市に生まれた。
95年といえば、震災の年だ。つまりあの巨大な揺れをトシオは母親の胎内で感じていたことになる。実家の農家の母屋が半壊した時に、母親はちょうどトイレにいて、両手を壁に突っ張って揺れを堪えたのだと、トシオは繰り返し聞かされてきた。そのため、トシオは今でもトイレに座ると、なんとなく揺れに備えて両手が壁に届くかをチェックしてしまう。
絶対はない。
トシオが高校時代に付き合っていた清水典子は、たまねぎ小屋でそう言った。トシオはそのことをよく覚えている。
今はどうか分からないが、トシオが高校生の時は、女の子にとって、耳のピアス穴は彼氏に開けてもらうものだった。氷で冷やしてピンでぷつりと開ける行為。それが付き合っていることの証でもあった。
トシオはタマネギ小屋で、フリーズバッグに入れて持参した氷を典子の耳たぶやその上の辺りに当てて、5つも穴を開けた。ピンを押すたびに、典子の肩が上がり、全身が微かに強ばるのが分かった。
「絶対、お前と別れないからな」
トシオ自身もちょっと驚くような言葉が口から出て、言ってしまった手前、照れるわけにもいかずに、真面目な顔で典子を見つめた。
「絶対は、ない」
典子は、何かを宣言するかのような快活な声でそう言い切った。
耳から垂れる典子の血を拭きながら、トシオは、きっとその通りだと噛み締めるように受け入れた。絶対なんて、ない、と。







典子は、フォトグラファーの仕事が途切れた一週間を利用して、ひさしぶりに実家に帰ることにした。新幹線で新神戸まで行き、そこからバスで淡路島に入った。明石大橋が見え始めると、半ば島に到着したような気になった。
いつもの帰省にはない仄かな胸騒ぎを感じながら、バスの窓から風景を眺めていると、高校を卒業したあの年の自分を思い出した。あの春のあの日、典子が抱えていた不安は、それを遥かに上回る希望によって、かき消されていた。中学の修学旅行で歩いた東京の残像はその時もはっきりと残っていて、写真の専門学校に通うのは半分は東京に住むための口実だったが、そのことは典子自身しか知らなかった。家族も、その時付き合っていた彼にも内緒だった。
写真に夢中な18歳のふりをすることは簡単だった。目を輝かせて、写真を語るだけで良かった。父だけは、写真なんかで食えるのか?と最後まで懐疑的だったが、好きなことをやらせてあげましょうという母の助け舟がその度に横付けされていた。
写真で食うつもりなんてなかった。ただ東京で暮らす2年間が、自分の人生の加えられればいいと典子は考えていた。いずれは実家の旅館をつぐはめになるのだ。その前にたっぷりと楽しんでおかなくては。そんな気持ちしかなかった。


トシオは、失業中だった。勤めていた神戸のトルコレストランが潰れてしまったあとで、他の店からの誘いを断って実家の農業を手伝うことに決めたのは、背骨のしっかりとした「なんとなく」によってだった。
ちょうどその頃、倉敷出身の恋人とも別れたばかりで、神戸にいるのが心苦しくもあった。何かの拍子でポケットからこぼれ落ちた小銭を拾うのがなんだか面倒で、そのまま歩き去ってしまうような気分だった。丁寧に一枚残らず拾い上げ、汚れを払い、財布に戻すことが億劫だった。つまり、弱っていたのだ。トシオは自分が弱っているのを知っていた。そして4年暮らした2LDKの部屋を引き払って、赤い大橋を渡って島に帰ったのだった。4年分の荷物は、意外と多かった。そのほとんどを処分して、南淡路への帰路についたのはわずか半年前だった。
父と母と弟は、トシオの帰還を喜んでくれた。それは実家を継ぐ決心に対してといぅよりも、愛する人の帰還をただ普通に喜んでいたのだった。


ようやく戻ってきたよ、と典子の父は破顔した。
満室続きだ、やっとだよ、と上機嫌な父を見て、典子も安堵した。みんな旅行したかったはずだよね、と典子が相槌を打つと、うんうん、とでも言うように父は大きく頷いた。漁業も農業も、販路不足に悩んでいたから、観光業の復活は彼らにとっても待ってましたや、父は鼻息を荒げた。
典子は、帰省のたびに父の口から出る「いつになったら戻ってくるんや、結婚もせずにいつまで東京におるんや」の台詞が今回はまだなのに気づいていたが、どうやら娘のこと以上に地元の産業を憂いているのだろうと察した。
東京で働きながら、コロナ不況を心配していたが、なんとか持ち堪えた実家の様子に、典子自身も心底胸を撫で下ろした。老いた親が苦しんでいるのは、やはりつらい。


トシオは、米とタマネギ作りにすぐに慣れた。まだ、わずか半年だけの経験しかないが、幼い頃から父の働く姿を見ていたので、だいたいの勝手は知っていた。江戸時代から続くだけあって、大規模な部類に入る農家であり、口にすることはなかったが、誇りを持って仕事をしていることが、親の態度から滲み出ているとトシオは感じていた。
朝夕に、必ず2人並んで神棚に向かって慇懃な祈りを捧げている背中。小さい頃はなんということもない日常の光景であったが、都会暮らしから戻って見るそれは、なんとなく格好いいというか、半生の誇りとでも言うようなものをトシオはそこに見つけていた。
「ご先祖さまも褒めてくれるだろう」
いい米や玉ねぎが収穫できた時に、必ず父が口にする言葉は、彼の焦点は遠くにあり、自分とは違うのだと、トシオは幼い頃から思っていた。そして歳月を経た今となっては、自分もご先祖さまを想うことが増えていくのだろうと感じていた。







ある夜、トシオは友人との食事から家に戻る途中、所有する玉ねぎ畑に建つ小屋を軽トラで通りかかった。その小屋は、収穫したタマネギをしばらく吊るしておく場所であり、そうすることで玉ねぎの甘みが増やし、全国でも有名な淡路特産物となるのだった。
その小屋は、玉ねぎ小屋と呼ばれ、バス停の雨除け小屋のように、一般に開放されているような場所で、近所の老人たちが談笑したり、学生の恋人たちが人目を気にしてデートに使うこともあるような所でもあった。
トシオは自分の家に属しているタマネギ小屋のひとつを通り過ぎた時、中に人影があったのを視界の端にとらえた。普段なら別に気にせずにそのまま通り去るのだったが、その時は何かひっかかるものがあり、静かに停止すると、そのままギアをバックにいれて、ゆっくりと戻った。小屋の中にいる人を驚かさないための小さな配慮だったが、軽トラが後退する時のエンジン音はことのほか大きく、その配慮の意味を消していた。


典子は、軽トラがバックし始めた時に、運転しているのはトシオに違いないと分かった。ちょうどその時に、トシオのことを思い出していたので、典子自身も驚いた。
道の反対側の電柱に設置された外灯からの光のせいで、自分が何者かが軽トラの主にもすぐわかるだろう。私を見つけて、トシオはどんな態度を示すのだろう。典子はそこまで考えがすでに及んでいた。


軽トラがタマネギ小屋の正面に差し掛かると、トシオはそこにいる女が誰なのかがしばらく分からなかった。土地の者ではないようだ、いったい観光客の女がこんな時間にこんな場所で何をしているのだろうと訝る気持ちが前に出るのが早かった。そして、遅れて、驚きがやって来た。それは驚き以外のなにものでもなかった。トシオは自分がどうかしてしまったのかと、感じた。今、目の前にいる人は、ここにいるはずもない者で、化けて出てきたのかと微かな恐怖さえ感じた。そしてこれらの感情は、表現型としては、とってもシンプルなものとなってしまった。


典子は思わず笑ってしまった。
およそ10年弱の歳月を経て、向かい合った高校時代の彼の間の抜けた顔は、笑わずにはいられないほど滑稽だった。
「口とじたら?」
再会の言葉としては、世界史上数件のレア度ではないかと、思考の隅で典子は意識した。
「あ?」
トシオはそれに対して、阿呆のような甲高い声で返事をした。自分でも驚くような高い声だった。おそらく子供の時以来の高音の「あ?」だった。そして「よう」と言い直したが、「よう」にしたって26の男が発するような単語ではないとトシオは咄嗟に恥じた。
妙な再会だね、と笑いながら典子が言うと、おう、と素っ気なくトシオが言った。







玉ねぎの香りに包まれた再会は、間の抜けた言葉と共に、その日始まって以来の午後9時を迎えた。
2人はプラスチックでできた牛乳メーカーの名前入りのベンチに座り、決して触れ合うこともなく、当然感情に流されて昔のように立ちバックで交わることもなく、10代の終わりに、その場所でピアスの穴を5つ空けたこと、空けられたことを懐かしく語ることもなく、つまりノスタルジーやセンチメンタルを間にいれることもなく、実に淡々と、まるで玉ねぎの皮を無造作に剥くような、平凡な会話を繋いだ。
小一時間ほどして、話も尽きると、典子を軽トラでトシオは家まで送った。
「これからどうするの?」
典子がさらりと聞く。
「帰って寝る」
「そうじゃなくて、今後の未来のこと」
「おう、そうか」
「そうだよ、未来」
「未来かあ、。。。そうだな、タマネギを、すごいタマネギを作って、先祖に褒めてもらう」
「ふうん」
「おまえは?」
「さあね、写真も飽きてきたしね。わからん」
「そうか、まあがんばれよ。なんだか、終わりが始まるみたいだな」
「そうだね」
「そうなのか?」
軽トラのエンジン音が軽やかに田園の道を伸びていく。
典子は、ギアをバックに入れた時のさっきの音を心に響かせていた。
 




#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
#10 19, 17
#11 S池の恋人
#12 歩け歩けおじさん
#13 セルフビルド
#14 瀬戸の時間
#15 コロナウイルスと祈り
#16 コロナウイルスと祈り2
#17 ブロメリア
#18 サガリバナ
#19 武蔵関から上石神井へ
#20 岩波文庫と彼女
#21 大輔のホットドッグ
#22 北で手を振る人たち
#23 マスク越しの恋
#24 南極の石 日本の空
#25 縄文の初恋
#26 志織のキャップ
#27 岸を旅する人
#28 うなぎと蕎麦
#29 その部分の皮膚
#30 ZEN-は黒いのか
#31 ブラジリアン柔術
#32 貴様も猫である


藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある
 
 

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