世紀の大傑作『かぐや姫の物語』にあえて苦言を一言 - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

ニューズウィーク日本版 / 2013年11月26日 13時13分

 ちょうど封切りの初日に間に合ったのは幸いでした。短い一時帰国の最後の晩、新宿のシネコンで観賞後に羽田発の深夜便で西海岸乗り継ぎで戻ってくるというのは強行軍に聞こえますが、その間、映画の余韻がずっと続いていたことで疲労も感じなかったぐらいです。

 傑作だと思います。いや大傑作でしょう。

 これはアニメーションというカテゴリに全く新しい次元を開いただけでなく、原作の『竹取物語』が千年を越える生命を保っているように、この作品も長い時間を越えて残っていく価値がある、それぐらいの作品と思います。

 何よりも、日本画や水墨画を思わせる「開かれた、そして動的なエネルギーのある線」の表現が、動画になることで、ここまでの表現力を獲得したということが画期的です。アニメは、ここに至って「輪郭線と塗りつぶし」という文法から解き放たれたのですが、そのことの意味がこれほどまでに説得力を持つというのは驚愕でした。

 日本画の影響ということでは、横山大観の『無我』であるとか、川合玉堂の『彩雨』(および最晩年のタッチ)といった作品からの影響も感じますし、また日本の「マンガ」のルーツの一つとも言われる『鳥獣戯画』の描写法もふまえているように思います。ですが、それを動画にするということでこれだけの表現力が出せたということは全くのオリジナルだと思います。

 まず輪郭線が「閉じない」ことで、「対象の存在感」が輪郭を越えて広がってゆくというダイナミズムが生まれています。彩色が輪郭線に拘束されないことで「にじみ」を通じた彩度と明度の連続的な変化から「淡さ、浅さ、若さ」といった「美」が表現できるなど、一見すると日本画や水墨画にインスパイアされたものに見えた表現が、動画として動かすことで、全く次元の異なる表現力を獲得しているのです。それが「明暗、寒暖、喜怒哀楽」といった感覚と感性の表現になっている、これは奇跡としか言いようがありません。

 タケノコの生長、梅の開花、キリギリスの跳躍、降雪、降雨、紅葉、そしてあの素晴らしい丘の上の満開の桜に至るまで、日本文化の中核にある自然観がここまで美しく表現され、しかもその表現が完全にオリジナルだというのは大変なことです。更にその自然の表現が動的であることが、生命の感覚を生き生きと伝えている、そのことが主人公の成長と成長に伴う葛藤、そして主人公の宿命といった問題と完全にシンクロしているのです。



 主人公と言えば、その「かぐや姫」の「美しさ」ということも特筆に値します。これも「輪郭線と塗りつぶし」からの解放ということが大きいのだと思います。というのは日本の女性像としては異例なまでに「強い目」を表現していながら、その「目線が柔和」なのです。この「柔和にして鋭敏」な「目力(めぢから)」が美しさの秘密で、これもまた、アニメ表現をアートのレベルにまで昇華させていると言って良いでしょう。

 ストーリーに関しては、原作の『竹取物語』に極めて忠実な一方で、自然に囲まれた生活と都会の生活の対比という追加されたモチーフには『アルプスの少女ハイジ』との共通点を強く感じます。ですが、そもそも高畑勲監督が若き日に参加した日本のアニメ版『ハイジ』には、日本的な自然観が色濃かったわけで、この点にも違和感はありませんでした。というよりも、キャラクターの成長とストーリーを立体的にするための「追加」としては全く問題なく原作のストーリーと一体化していると思います。

 声優陣も皆さん素晴らしく、特に地井武男さんの演技は超絶的としか言いようのないものでした。既に他界されている地井さんですが、その演技がこのような形で永遠に残るというのは、役者さんという仕事ならではの特権でしょうが、それにしても見事でした。

 では、この『かぐや姫の物語』は完璧な作品なのでしょうか? そうではないと思います。二つの点について、あえて苦言を呈したいと思います。

 一つ目は、全てがあまりにも緊密に完成されている一方で、おそらくはその緩和を企図しての「リラックスさせる要素」が入れられていることです。例えば主人公の姫の「侍女」である「女童」について「パタリロ」にも似たコミック的な処理がされていることが気になりました。それと、これは「ネタバレ」になりますが、主人公の「幼馴染み」との再会において、妻子ある男性と「逃げる」とか「逃げない」という会話が出てくるのも、ちょっと引っかかります。

 別にクソ真面目な観点だけで作品を作れとは言いませんが、この二点に関しては「受ける」かどうかという点で普遍性が弱いわけです。現代の日本人の観客だけが対象であるのならば、こうした「遊び」や「人間くささ」を入れることは「見やすさ」になるという判断があるのは分かります。ですが、もしかすると千年の命があるかもしれない作品として、あるいは世界の幅広い文化圏から賞賛を受ける可能性のある作品として考えると、こうした処理は不要であると思いました。

 二点目はもっと深刻な問題です。序盤の山の中で「かぐや姫」が成長してゆく場面を通じて、身体の「秘めるべきところを秘めない」という表現スタイルが貫かれているのです。ある授乳シーンでは、乳房が大きくクローズアップされますし、赤ん坊や幼児はほとんど半裸の姿で、男女の身体的特徴まで露わに描かれています。幼児の「お尻」は何度も何度も出てきます。また、全裸の少女が水に飛び込むシーンもあります。



 表現の意図としては分かります。人間の身体性を通じて、ある種の自然と一体になった野生味や生命力を描きたかったのでしょうし、子どもの持つ不思議な成長のプロセス、あるいはそこに多少の超自然を入れて作品の神秘性ともリンクさせたかったのでしょう。そうした意図は確かに感じられ、効果も上げていると思います。

 ですが、こうした表現は余りにも「ガラパゴス」です。これでは、この大傑作は国境を越えて飛翔してゆくことはできません。

 残念ながら、授乳シーンや子どもの半裸、あるいは裸身のシーンは欧米圏、あるいはイスラム圏では上映に大きな制約がつくと思います。例えば、このままでは米国の場合ですと、本来であればPG指定で家族向けの大きな観客層を対象にすることが期待されますが、現在のバージョンでは全く無理で、PG13にするのが可能かどうかというより、不適切な内容だということになるかもしれません。レーティングを突破して上映しても、世評としては反発を買うでしょう。

 そうした宗教的な禁忌はナンセンスであり、ある種の「おおらかさ」も含めて日本文化を理解してもらいたい、そんな思いが制作サイドにはあるのかもしれません。また欧米から押しつけらての「児童ポルノ規制」が「表現の自由への弾圧」になっているということへの抗議の思いも秘められているのかもしれません。

 ですが、とにかく、このままでは折角の日本を代表するコンテンツの輸出に大きな制約がつくと思うのです。だからといって、このような歴史に残るであろう大傑作について、国内版と国際版の2種類を作るというのも格好の悪い話です。

 賛否両論あると思いますが、この点に関しては、クローズアップやシーンのカットといった小手先の処置だけでなく、前後の編集からリズム感を再構成した形で全世界で問題なく家族向けに上映できる版に仕上げて、それを唯一のオリジナルにしてはどうかと思います。大傑作だからこそ、そのように思うのです。高畑勲監督をはじめ関係者の皆さんにご一考をお願いする次第です。

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