【特別寄稿】TBSアナ久保田智子「私の広島、私達のヒロシマ」
ニューズウィーク日本版 / 2016年5月24日 11時30分
<広島出身者にとっての故郷「広島」と、原爆が落とされた場所「ヒロシマ」。広島がカタカナになったとき、それは「誰かが語る広島」に変容し、ときに一人歩きさえしてきた。一方で、これまでなかなか伝わってこなかったのが広島の人々にとっての「広島」だ。広島出身アナウンサーの久保田智子氏が初めて語る、自分にとっての広島/ヒロシマとは(編集部)>
「出身はどこ?」と聞かれることに、かつての私は少しの煩わしさを感じていました。「広島」と答えると、相手の表情が変化するのがわかります。その直前まで大笑いしてバカ話をしていたのだとしても、私の「広島」という言葉は静寂を誘い、そしてこの後「ヒロシマ」について何が語られるのだろうと、相手はじっと私の次の言葉に期待するのです。
私が育った広島。原爆が落ちたヒロシマ。明らかに相手は私の暮らした場所とは違うイメージを想起しています。そしてその期待に応えてくれないとわかると、私へのまなざしは落胆をあらわにし、私は自己否定されたような気持ちになるのです。
大人になると、「そう、原爆の落ちたヒロシマです。私の祖父は戦地にいて被爆していませんが、祖父の家族がどうなったか祖父は死ぬまで話そうとしませんでした」などと、それらしく話すようになりましたが、これでは何一つ伝わっている気がしないのです。むしろ祖父の沈黙を犯しているようで、私はヒロシマの何を知っているのだろうか、ヒロシマを語る権利なんてあるのだろうかと、とても後ろめたい気持ちになるのでした。
【参考記事】オバマ広島訪問より大切なものがある
8月6日、広島の体育館
私にとってのヒロシマの記憶は、爆音でも、閃光でもなく、夏のムシムシした体育館です。原爆投下の8月6日が近づくと、広島では夏休みに登校して平和教育を受けます。床にバスケやバレーの線が引かれた体育館に生徒たちは学年ごとに整列させられ、丸一日かけてヒロシマについて学ぶのです。外ではセミが鳴き、空調のない体育館に生徒たちの汗の匂いが漂います。そして、被爆者が紹介され、原爆投下からこれまでを証言するのです。
「1945年の広島は......」細かい表現や言葉は覚えていませんが、証言を聞きながら感じた印象は鮮明です。暑い体育館。鼻の頭に汗をため、プリントをうちわ代わりにしながら耳を傾けるクラスメイト達。当時もこんないつもと変わらない日常が流れていたんだ。被爆者の言葉がぐいぐいと私を原爆が投下された日へと誘います。私達の学校の先輩は爆心地近くで朝から学徒動員されていたんだ。そして証言者とともに1945年8月6日8時15分を共にするのです。市街の建物取り壊し作業中被爆、全員が死亡。体育館に充満する汗の匂いが鼻につんと突き刺さるのでした。
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