テロリストの一弾が歴史を変えた――第一次世界大戦史(1)
ニューズウィーク日本版 / 2016年7月8日 18時3分
愛ゆえに危険なサライェヴォに赴いたと言えば、言いすぎではあろう。しかし、ハプスブルク家の厳格なしきたりと闘い続けてきた大公にとって、この訪問は身分違いの結婚から生じた不本意な処遇を改善する好機でもあった。現在、写真で目にすることができる、オープンカーで並んだ夫妻の姿は、サライェヴォだからこそ実現したのだ。
フランツ・フェルディナント大公は、知性はあるが怒りっぽく頑固で、自分の意見に固執する傾向があった。一方、ゾフィーは、大公の怒りっぽい性格を補える、健全で心のどかな女性であったという。二人は相性が良かったのだろう。子宝にも恵まれ、暗殺の時には二男一女がいた。大公は家庭生活に満足し、家族を心底愛していたという。
テロリストの最初の一弾は、車のドアを貫通してゾフィーの腹部に、第二弾は大公の首筋に命中した。車中で大公は、意識を失った妻に「ゾフィー、ゾフィー、死なないでくれ、子どもたちのためにも生きていてくれ」と語りかけた。しかし、願いはかなえられず、大公自身もほどなく絶命する。
まえがきで述べたような高まる民族意識を背景に、「黒手組(ブラックハンド)」と呼ばれるセルビア民族主義者のテロリスト組織は、オーストリアに併合されたボスニア出身のセルビア人青年らに訓練を施していた。そして、彼らに武器を渡して、一九一四年五月末にボスニアへ送り込んだのだ。大公夫妻を撃ったのは、その一人のガヴリロ・プリンツィプである。
大公は、テロの標的となるような対セルビア強硬派だったのだろうか。むしろ、彼はセルビア人を含むスラヴ民族に宥和(ゆうわ)的で、帝国内のスラヴ人地域により多くの自治権を与えようとしていた。しかし、このような考えこそ、民族の支配地域を拡大したうえで統一を図ろうと考える人々にとっては脅威であった。
逮捕されたプリンツィプは、大公が「将来の君主として、一定の改革を達成することによって、我々の統一を妨げたであろう」と言っている。第一次世界大戦の開戦過程を描いた名著『夢遊病者たち』で、歴史家クリストファー・クラークはこう指摘している。テロ活動の論理からすると、明白な敵や強硬派よりも、このような改革派や穏健派の方が恐れられるのである、と。
暗殺の波紋はゆっくりと広がったが、大戦に発展する兆しはなかった。ただ、この暗殺によりオーストリア政府内では、セルビアに対して武力行使も辞さない強硬措置を取ろうとする意見が急速に台頭する。この時点で明瞭な証拠はなかったものの、暗殺の背後にはセルビアがいるか、あるいはセルビア政府は凶行を少なくとも黙認していた、と推察したのだ。
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