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優柔不断なツァーは追加の電報で気が変わった――第一次世界大戦史(3)

ニューズウィーク日本版 / 2016年7月11日 17時6分


※シリーズ第1回:テロリストの一弾が歴史を変えた――第一次世界大戦史(1)
※シリーズ第2回:ロシアの介入はないと無責任な約束をしたドイツ――第一次世界大戦史(2)

◇ ◇ ◇

「外交的あいまいさの傑作」に対するオーストリアの宣戦布告

 セルビア政府は最後通牒の一〇条項の要求に対する回答で、オーストリア官憲が共同でサライェヴォ事件の究明にあたるという条項に対し、留保条件をつけることにした。これは、パシッチ首相が、テロを背後で画策・支援した組織と間接的なつながりがあり、露見するのを恐れたためとも言われる。パシッチ首相は自らオーストリア公使館に出向き、期限の二五日午後六時の五分前に、オーストリア公使へ回答を手渡した。

 セルビア側の回答については、ほとんどオーストリアの要求に屈服したものだと言われることが多い。しかし、実のところ、この回答は「外交的あいまいさの傑作」とも称されるものであった。個々の条項に対して、受諾、部分的受諾、回避、拒否など手練手管を弄し、オーストリアに対して「驚くほどほとんど何も与えていない」と歴史家クラークは評している。

 一方、元より呑めない条件を提示していたオーストリア側にとって、全面受諾以外は何であれ同じだ。公使は予定通りすぐさま公使館をたたみ、七時前にはセルビア国境を通過する。



 他方、北欧クルーズに出かけていたカイザーは、報告を受けてはいたものの、最終的にヨーロッパ戦争に発展はしないと楽観視していた。二七日にポツダムへ戻ったカイザーは、翌日、セルビアの回答内容を知り、それが宥和的であることを「予想以上」と捉えた。彼はオーストリアが戦争に訴える理由はなくなったと考え、自ら仲裁に乗り出す意向も示す。

 しかし、指示を受けた外相も、ベートマンも、カイザーの主張をまともにオーストリア側に伝えようとしなかった。クラークが書いているように、カイザーが以前のように臣下を動かす力を十分持っていたら、カイザーの介入で危機の展開も変わったであろうが、そうはならなかった。

 それでもまだ妥協の余地は残っていた。なぜなら、ロシア側に最後通牒の期限の延期を求められて、ベルヒトルトは拒否したものの、彼は期限が切れてからもセルビア側が要求に従えば戦争を避けることができると回答していたからである。

 しかし、ロシアの部分動員を知って、セルビア政府はむしろ勢いづいていた。駐露セルビア公使は、「セルビア人の完全な統一」を果たす絶好の機会が訪れたとさえ報告している。

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