優柔不断なツァーは追加の電報で気が変わった――第一次世界大戦史(3)
ニューズウィーク日本版 / 2016年7月11日 17時6分
七月二八日午前、皇帝フランツ・ヨーゼフは、対セルビア宣戦の詔勅に署名する。こうして、オーストリア対セルビアの戦争は始まったが、まだこの段階では地域紛争に留まっていた。この七月危機のさなか、老皇帝は次のような趣旨のことを漏らしたと伝えられる。「この君主国が亡びなければならないならば、その時には少なくとも名誉をもって亡びなければならない」。名誉ある滅亡かどうかは別にして、この古くからの帝国は亡ぶ。しかし、老皇帝はそれを目撃せずに済む。
揺れるツァーの決断
部分動員を決めていたロシアは、さらに総動員(三〇日下令)へと向かう。これを「七月危機におけるもっとも重大な決定の一つ」とクラークは言う。当時は外交文書の捏造(ねつぞう)などもあり、はっきりとしなかったが、ロシアは総動員をかけた最初の国だった。なぜロシアは部分動員を総動員へと切り替えたのか。
まずは、先にも述べたように、部分動員が技術的に実行困難であったことがある。さらに外交交渉の行き違いもあった。少し経緯を見てみよう。
ドイツでは、戦争をオーストリアとセルビアとの間に局地化したいと考えたベートマンが、カイザーからツァー宛の電報(二八日付)で、墺露間の調停の意向を伝えた(二九日の夕刻にはもう少し踏み込んだ内容の電報を打つ)。
一方でベートマンは、二九日の午後、駐露ドイツ大使を通してサゾノフ外相に、ロシアが軍事的準備を続けるならばドイツも動員せざるを得なくなるという警告を伝えた。あくまで警告のつもりだが、サゾノフは怒り、あたかも最後通牒であるかのように受け止め、総動員がすぐに必要だと確信してしまう。
その晩、サゾノフはツァーに、これ以上、総動員が遅れればロシアは危ういという軍の見解を伝えた。ツァーは、総動員を承諾する。ところが、その総動員令が発せられる直前の午後九時二〇分に先述のカイザーが夕刻に発した電報が、ロシア側に届く。「ロシアの軍事的手段は、オーストリアには脅威とみなされ、我々が避けたいと望んでいる大惨事に陥り、余への貴殿の友情と助力の訴えに基づき、余が喜んで引き受けた調停の役割を危うくするだろう」と電文は締めくくられていた。「大惨事」の責任を負いたくないと考えたツァーは、総動員令を撤回し、部分動員に切り替えることにした。部分動員の命令は、その夜遅くにとりあえず発せられた。
しかし、優柔不断なツァーは、翌三〇日の朝、ベートマンがサゾノフに伝えた警告と同じような内容が記された、カイザーからの追加の電報に接して気が変わる。ツァーは、オーストリアが動員をしているのにロシアが止めると自国は無防備になるという考えにもとりつかれていた。実際にはオーストリアは総動員に踏み切っていなかった。ツァーがそのように信じた背景には、ロシアの軍事諜報(ちょうほう)分析で、伝統的にオーストリア軍の能力が過大評価されており、とくに先制攻撃で優れていると見られていたからだ。
開戦後、主要国は自国の正当性を訴えるため色付き表紙の外交文書集を発刊した。その一つであるロシアの『オレンジブック』で、ロシア政府はオーストリアの総動員令を三日早く二八日とし、ロシアに先んじたと捏造した。しかし、実際にはロシアは七月危機の中で最初に総動員をかけた国であることが現在では明らかになっている。さらに口裏を合わせるため、フランスは自国外交文書を載せた『イエローブック』で、でっちあげをしている。
三〇日午後三時、サゾノフが拝謁した際、ツァーは「疲れ果て心ここにあらず」の様子であった。サゾノフは、「平和を保持する希望は残されていない」という結論を伝える。ツァーは、「参謀総長に余の動員命令を伝えよ」と言った。かくして総動員令は再び承認されて、今度こそ本当に発せられたのである。
『第一次世界大戦史――諷刺画とともに見る指導者たち』
飯倉 章 著
中公新書
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