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沖縄の護国神社(2)

ニューズウィーク日本版 / 2016年8月14日 9時27分

 義父・順正は沖縄本島から約四百キロ離れた八重山諸島の竹富島で一九二九(昭和四)年に生まれた。もともと神社とは何の関係もない。生母が早く亡くなり、継母が来て兄弟が多く、生活が苦しかったらしい。『竹富町史 第十二巻 資料編』(竹富町史編集委員会、一九九六年)を見ると、終戦時に十六人家族だったと記載される。

 小学校を終えただけで軍に志願して熊本へ入営した。航空兵だったとも満州へ渡ったとも聞くが定かではない。終戦をシベリアの収容所で迎え、後に北朝鮮の収容所へ移送されたらしい。当時かかった凍傷で左手の一部が動かないままだったが、詳しいことは家族にも話さず「寒かった」とだけ言ったそうだ。終戦時十六歳と若かったため早い段階で帰れたが、竹富島も帰還者で溢れて居場所がなく、再び島を出て那覇へ向かった。着替え一組だけを持って漁船で密航し、沖縄本島近くから泳いで上陸したと聞く。

 一度、試しに沖縄県公文書館で名前を検索してみたところ、米軍の雇用記録(レイバーカード) がヒットした。輸送船か何かに乗っていたらしいが、親しかった親戚や幼馴染みの誰に聞いても知らない話だった。

 その記録の頃は二三歳で、まだ「加治工(かじく)」姓だった。復帰前は簡単な手続きで改姓できたため、沖縄風の姓を内地風に変えた例は珍しくない。一目で八重山と分かる「加治工」を内地風の「加治」に変えたのは、神社で働く決意の表れだったのか、あるいは軍国教育と従軍経験から「日本人」意識が強かったためか。いつも標準語で話し(3)、沖縄では珍しい一人称「僕」を使い、泡盛は口にせずウイスキーや日本酒を好んだそうだ。



 沖縄本島に出てから長く仕事を転々とし、政治家に憧れて同郷出身の県会議員の事務所で下働きをした。酔うといつも「都の西北」を上機嫌で歌ったのは、早稲田出身のその政治家の影響だろうと想像する。学歴がないのを残念に思っていたらしいが、社史の文章はなかなかに立派だ。沖縄では手に入れにくい『中央公論』や『文藝春秋』などの論壇誌を毎月何冊も買っては、せっせと読むのを日課にした独学の人だった。

 生活に困窮し、日雇い労働で摩文仁の遺骨収集や運搬の作業をしていたところ、「護国神社を再建するから事務員として働かないか」と声をかけられた。つまり、義父にとっても、始まりは遺骨収集だった。以後、二〇〇三年に亡くなるまで四十年以上にわたって神社運営の「縁の下の力持ち」を務めた。集合写真ではいつも奥の隅にそっと立っている。

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