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沖縄の護国神社(2)

ニューズウィーク日本版 / 2016年8月14日 9時27分

「財団法人」護国神社

「人心が落ち着くに従って心のよりどころとなる護国神社の早期復興が望まれてきた」(『歩み』、二七-八頁)と沖縄県遺族連合会の元会長・座喜味(ざきみ)和則は一九五〇年代半ば頃を回想する。

 戦争から十年を経て人々の生活が落ち着きつつあった。と同時に、本土復帰が見えなくなった時期でもある。一九五一年に対日講和が締結され、沖縄では「日本復帰促進期成会」が結成されて署名運動も起きた。二年後には奄美が本土復帰を果たしたが、沖縄本島では、アイゼンハワー大統領の「沖縄基地の無期限保持」声明(一九五四年)に後押しされ、米軍の基地建設が進んだ。

 一九五七(昭和三二)年十月、「靖國神社の国家護持と護国神社復興の世論を盛りあげるため」の「靖國神社奉賛会沖縄地方本部」が結成された。これが沖縄県護国神社を再建して運営する組織の始まりとなる。初代会長は立法院(県議会に相当)議長・与儀達敏(たつびん)で、「琉球民主党」という後の沖縄自由民主党になる保守政党を立ち上げたことで知られる。翌一九五八(昭和三三)年四月に第二代会長になった立法院議長・安里積千代(あさとつみちよ)は、沖縄復帰運動に尽力することになる革新系政治家の大物で、同じ年に地域政党・沖縄社会大衆党の委員長になった。副会長には沖縄遺族連合会会長・山城篤男のほか、具志堅宗精(そうせい)もいる、オリオンビールを中心とする企業グループの会長でもある伝説的な実業家である。超党派の大物政治家と財界人と遺族とが手を結んだ団体だった。

 それでも、簡単には進まない。神社の敷地の境界すら分からない状況からのスタートである。登記簿もなく那覇市役所に敷地譲渡を折衝して難航し、補助金交付を申請して「法的に困難」と却下された。初代事務局長・仲田彦栄の当時の日記には、淡々とした事実の記録に挟んで「今後の対策をどうすべきかについて頭が痛い」、「何故に此の仕事を引き受けたのかとも思う」などの言葉が綴られている。職員の給料を遺族連合会から借りたり、事務員に一時休職させたりする窮乏状態だった。

 一九五九(昭和三四)年一月、なんとか奥武山の敷地を坪単価二セントで賃借する契約が成立し、四月には約七坪の小さい仮社殿が造営された。元職員の遺族が自宅に安置していた御霊代が移され、四月二六日、沖縄県出身戦没者九万三四四六柱を合祀して第一回春季例大祭が斎行された。



 この仮社殿造営の苦労を、神社の代表役員を務めたことのある元立法院議長・長嶺秋夫は「異民族支配の下にありながら宗教関係本土法(ママ)の適用も得られないまま暗中模索を繰り返す中」で実現した、と感慨深げに回想する(『歩み』、二六頁)。

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