いとうせいこう、ギリシャの「国境なき医師団」を訪ねる.1
ニューズウィーク日本版 / 2016年8月29日 17時5分
もしそれが観光だったら、俺はあの時その流しに小銭を与えたかもしれない。いかにも異国らしい情緒にひたるために。
だが、俺はギリシャの経済的疲弊を知っていた。むしろアコーディオン弾きの暮らしがせっぱ詰まっているのだと思うと、反対に俺の手は動かなくなった。まったくおかしな話だ。あの時、俺は積極的に小銭を出すべきだったのではないか。
なんとか「メガロ・ムシキス駅」についたのはいいが、そこから歩いていくべきMSFギリシャへの道を迷いまくった。途中すぐに俺は用意していたキャップをかぶったのだが、すでに脳天は暑かった。熱中症になるおそれがあるほどの陽気の中、俺たちは荷物を引きずりながら同じがたがたの道を左に行き、右に行き、四十分を費やした。
ただし、おかげで俺はあの鳩と燕のハーフみたいなやつが、ギリシャの小型の鳩だということを知った。道路のあちらこちらに色んな柄のそれが歩き回り、飛び回っているのだ。
ノアの箱船へとオリーブをくわえて帰ってきた鳩、平和のシンボルとなるあの鳥は、ギリシャのそこら中におり、水をのみ、木の実をつついて暮らしているのだった。
駅の壁にも鳩が飛んでいた。
俺はもうろうとしかけた目で、そうした鳩の白い羽根、灰色の羽根、斑点などを見ながら歩き続け暑さに耐えた。例の同じ画面を眺めていれば暇に耐えられる心理傾向が、俺を安定させたのである。
それはともかく、ようやく目当ての小さな通りを見つけ、なおもがたがたと荷物を引いて行って慎ましい古いビルにたどり着いた。そこがMSFギリシャのオフィスだった。短い階段を上って透明なドアを開けると中から冷気が来た。思わず深く吸い込んだ。
見逃しそうな小さなMSFの看板。
受付の女性が言った。
「暑かったでしょう!」
「はい。これが最高気温でしょう?」
「いいえ、まだまだ」
ギリシャの夏はなかなか厳しいらしい。
そこへ、待っていてくれたディミトリス・ロウビスさんが降りてきた。細い格子のシャツ、細いオレンジのパンツでスタイリッシュな男性だ。
挨拶もそこそこ、ディミトリスさんによる情報では、数週間ほどの間、ギリシャ各地での難民キャンプでは10の疾患を対象としたワクチン接種キャンペーンが行われているとのことで、あれこれと出払っている人が多いらしかった。ある者は市内で、ある者はサモス島で、またある者はレスボス島で子供たちに予防接種をしているのだ。俺たちの渡航前からMSFジャパンとの取材調整をしてくれていたアスパシア・カカリという女性が不在なのも、サモス島に入っているからだということだった。
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