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変革はいかに受容されたか? 「日本におけるキュビスム」展はまるで推理小説

ニューズウィーク日本版 / 2017年1月18日 19時41分

 1907年のピカソの《アビニョンの娘たち》がその誕生とされるキュビスムは、20世紀以降の美術にとって、あまりにも圧倒的な変革を起こしたアートでした。以後、どんな芸術もこの影響を無視しては語りえないとも言われています。

(参考記事:現代アートが彩る道後温泉で、山口晃の手がけた客室に泊まりませんか?)

 それほどの大きなムーヴメントは、当然、大正から昭和初期にかけて日本にももたらされます。しかし、同時期に入ってきたフォーヴィスムやシュルレアリスムに比べると、アーティストたちは実験的な創作の後、足早に立ち去り、深められることがありませんでした。
 ところが時を隔てた戦後、1950年代前半に、リバイバルともいえるキュビスム・ブームが見られます。きっかけは、1951年に東京と大阪で開催されたピカソの展覧会でした。洋画のみならず、日本画から彫刻、工芸にまで及んだその影響は、有名・無名を問わず、多くのアーティストの作品に、個々の表現の形を取りながら、活かされていったのです。

日本におけるキュビスムの記念的作品とされる裸婦像。故郷岩手での孤独な探求の中で彼なりのキュビスムに昇華された作品は、大胆なデフォルメ、配色ともに圧倒的な勢いです。萬鐵五郎 《もたれて立つ人》 1917年 東京国立近代美術館 

1920年代にドイツでバウハウスの研究を行った仲田の彫刻は、ザッキンやアーキペンコを彷彿とさせます。見る角度でさまざまな貌が浮かび上がり、そこに埋め込まれた数字をつい探してしまいます。 仲田定之助《首》 1924年 東京国立近代美術館 


(参考記事:1970年のTOKYOから、熱風が吹いてくる。)

 埼玉県立近代美術館では、この二度のキュビスムのムーヴメントを、それぞれ別の文脈でアーティストたちが受容していったという仮説に基づいた、大胆かつ細やかなセレクトで、日本でのキュビスムのかたちを再見する展覧会が開催されています。

 だから展覧会名は、「日本のキュビスム」ではなくて「日本におけるキュビスム」。そして、サブタイトルは「ピカソ・インパクト」。
 世界的にも特異な受け入れられ方をした日本におけるキュビスムの姿は、その理論よりも表現の手法として受け入れられたという文脈でたどったとき、ピカソの衝撃の大きさが見えてくる...。

 ピカソとブラックの作品をはさみ、戦前と戦後のふたつのムーヴメントを振り返る会場は、日本のキュビスムの代表とされる萬鐵五郎や東郷青児をはじめ、独自のキュビスムを追求し続けたただひとりと言える坂田一男から、あまりキュビスムとは結びつけられない堂本尚郎や河原温といった画家たちまで、西洋から遠く離れた日本で、キュビスムが、いかに時系列を無視して同時に入ってきた他の美術動向と融合しているかを感じさせます。

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