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昭和30年代のようなマニラのスラムの路地

ニューズウィーク日本版 / 2017年2月16日 15時30分

気がつけば、道路の中央分離帯にも女性が数人いて横になって眠っていた。彼女たちのすぐ横をトラックが往来していた。

スラム地帯はきれいな観光地の隣に広がっていて、行けども行けども終わる様子がなかった。あまりに即座に景色が変わったので、感慨の持ちようがなかった。スラムを抜けたなら気持ちのまとめようもあったろうが、木造の半ば潰れかけた小屋や、建て増ししていびつになった家、からまる電線はいつまでも続くのだ。やがて、それらの間に人が通れるかどうかの道があり、奥にずっと小屋が並んでいるのがわかってきた。

とんでもない密集度で人が暮らしていた。

と、そういえば自分がスラムのどの地点へ行くのかを俺は把握していないのに気づいた。

一体俺は何をしているのか。

目の前の状況を客観化出来ず、そこに援助が届く気もしなかった。ただただ手のつけようもない貧困がそこにあり、おそらく車で別方向に20分も行けばマカティという超バブルなビル群のある地域なのだった。差は歴然とし過ぎていて、かえって不明瞭な気がした。すべてがあまりに露骨だった。

バンが右折し、狭い道の中に入った。

屋台があり、子供たちが走り、大人はこちらをじっと見ていた。頭上に電線が行き来していた。

そうやって実際にスラム内に入ると、俺は視界に飛び込む光景を懐かしいと感じた。自分が育った昭和30年代の東京も、ほとんどそんな雰囲気だったのだ。俺の家それ自体、壊れそうな木材とトタンで出来ていた。

車が止まった。

ジュニーがまず降り、ジェームスも巨体を揺らして黙って続いた。ロセルもあとを追い、俺も谷口さんもそうした。スラムに音は少なかった。静かな横丁だった。

現地団体リカーンのオフィス

ひとつ3階建てだったか、広めの家があった。向かいにもスペイン風の別荘めいたものがあったから、スラムでもすべてが一様に貧しいわけではなさそうだった。



その広めの家にジュニーやジェームスがにこやかに入った。狭い廊下の先の方で明るい挨拶が交わされていた。

皆にしたがって俺も2階に上がった。10畳ほどの会議室があって、大きなテーブルが置かれ、まわりに椅子が点々とあった。

量の多い髪をした浅黒い顔の中年女性が、目を細めて各自に声をかけていた。彼女がリカーン側のプロジェクト・コーディネーター、その名もホープだった。黒い袖なしのワンピースにやはり袖なしの丈の長いジャケットをはおった彼女、ホープ・バシアオ-アベッラは実に元気な人で、挨拶をするジェームスの腹に自分の身体をぶつけるようにして歓待の意を示した。笑う彼女のがらがら声はひときわ大きかった。ホープが笑うと、無口だと思っていたジェームスもよく笑った。

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