性科学は1886年に誕生したが、今でもセックスは謎だらけ
ニューズウィーク日本版 / 2017年5月1日 17時10分
キンゼイと数人の助手たちは大勢の人に面接して、性嗜好に関する問いに答えてもらった。問いには、SMプレイ、獣姦、絹のストッキングなどへの嗜好を問うものもあり、質問項目の総数は521にのぼった。この調査の結果は、今の感覚で考えても衝撃的だ。当時は、ホモセクシュアルはめったにないものと考えられていたが、調査では、男性回答者の3人に1人が男性同士のセックスの経験があると答えた。女性は衝動的に性欲に駆られることはめったにないと考えられていたが、女性回答者の半数以上がマスターベーションをしていると答えた。結婚前のセックス、結婚相手以外の人とのセックス、オーラルセックスについても、当時の人々が考えていたよりはるかに多いことが判明した。
「なんてこったい」。このせりふは、ブロードウェイミュージカル『キス・ミー・ケイト』で、ポールが歌う歌詞の一節だ。ポールの歌では、キンゼイの調査結果が紹介され、そのあとにこのせりふが続いている。こう言って嘆いたのは、彼だけではなかったようだ。キンゼイが調査結果をまとめた画期的な著書『人間女性における性行動』が1953年に出版されると、ロックフェラー財団はキンゼイへの研究資金提供を打ち切った(男性版の『人間に於ける男性の性行為』は1948年に出版されている)。保守派や宗教団体はキンゼイを「コミュニスト」呼ばわりして、猛烈に非難した。キンゼイは睡眠薬が手放せなくなり、心臓を患った。1956年、彼は肺炎と心臓合併症に見舞われ、62歳でこの世を去った。
キンゼイの調査対象者は1万8000人にのぼり、普通の人々の性嗜好を探る調査としては最大規模のものとなった。しかしこの調査は半世紀以上も前のものだ。その後は、政界や社会からの圧力もあって、キンゼイの調査に匹敵するほどの大規模な調査は行われていない。キンゼイが集めたデータにしても、問題がないわけではない。調査対象者のほとんどが、教育を受けている中流階級の白人だった。話を聞ける人に面接したのであって、調査対象者を計画的に選んだわけでも無作為に抽出したわけでもない。調査対象者が打ち明けてもいいと思った記憶を集めたデータであって、検証可能なデータでもなければ、直接観察したデータでもない。
ハインリヒ・ヘルツの後を継いだ研究者たちは、社会の反感を買うこともなく、平穏に電波探知法やX線の研究を続けてきた。一方、リヒャルト・フォン・クラフト=エビングの後を継いだ研究者たちの多くは、メディアのやり玉にあげられたり、刑事告発されたり、職を解雇されたりしてきた。科学者は素粒子も超銀河団も観察できる。でも、性的欲望はそうもいかない。性的欲望の実態はどうなっているのだろうか? 科学者はこの問いに答えることはできていない。大勢の男女の自然な性行動を観察する方法がなかったからだ。
でも今は違う。
※続き(第2回):性的欲望をかきたてるものは人によってこんなに違う
『性欲の科学――
なぜ男は「素人」に興奮し、女は「男同士」に萌えるのか』
オギ・オーガス、サイ・ガダム 著
坂東智子 訳
CCCメディアハウス
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