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2050年の日本文化はサブカルから生まれ、オタクに支えられていく

ニューズウィーク日本版 / 2017年8月22日 16時0分

だから、仮に江戸幕府が「クールヤマト」構想を打ち出してソフトパワーの輸出に取り組んだとしても、そこに浮世絵が含まれることはなかっただろう。実際、1860年代の日本に上陸した西洋人たちは、浮世絵版画に対する評価の低さに驚愕したという。



第3に、浮世絵には当時の最先端技術が使用されていた。鮮明な色彩で質の高い木版画が制作され、低コストで量産されて販売された。北斎も、輸入が始まったばかりのプルシャンブルー(紺青)という顔料を試している。『神奈川沖浪裏』の鮮やかな青い波の色がそれだ。西洋絵画の遠近法も、北斎は必要に応じて採用していた。対照的に、紙や布地に伝統的な手法で描かれた伝統絵画は一枚一枚が高価で、もっぱら政界や宗教界の一部エリートの専有物となっていた。

第4に、北斎は75歳で改号して「画狂老人卍」を名乗り、自分の腕前は110歳で頂点に達すると豪語した。実際はそこまで生きなかったが、90歳で世を去るまで生涯現役だった。つまり、イギリスのビクトリア朝時代の批評家ウォルター・ペイターが芸術家の理想とした「宝石のような炎を燃やす」反抗的な若者のタイプではなかった。

だが芸術の世界には別な伝統もある。老いてなお切磋琢磨し続けることをよしとするものだ。北斎はまさにそのタイプで、20世紀のパブロ・ピカソもそうだった。今の日本で言えば、映画監督の新藤兼人だ。彼は80歳にして趣味の麻雀と野球観戦を断ち、100歳で死ぬまで映画作りに邁進した。

世界中がインターネットでつながる今の時代と、北斎の生きた18〜19世紀では隔世の感がある。しかし、全く変わっていないものもある。芸術への感動と、芸術家の才能だ。一方で文化状況は刻々と変化し続け、かつて制作者と消費者の間にあった親密な関係を、大量消費とグローバル化の時代に求めることは不可能に近い。

今をときめくJay-Zやケイティ・ペリー、あるいはマット・デイモンらの名は時とともに忘れられていくだろう。何十年も前に温泉宿で出合った名物料理の味は末永く思い出に残るだろうが、マクドナルドのハッピーセットを最後に食べたのはいつかを覚えている人はめったにいない。

【参考記事】マーガレット・ハウエル、ミニマリズムの女王と日本の意外な関係

長寿のクリエーターが続々と

時空を超えて生き続ける力のある文化的産物は、70億の地球人全てを満足させるたぐいのものではあるまい。生き残れるのは、認知度は低いが活力のあるサブカルチャーから生まれ、お金も暇もある大勢のオタクに支えられたものだけだろう。

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