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平昌五輪による南北和解などない

ニューズウィーク日本版 / 2018年1月25日 17時45分

さらには、バイエルン地方特有の大らかなもてなしの精神が、冷戦に「雪解け」をもたらしてくれるのではないかとも期待された。1896年アテネ五輪以来の近代オリンピック大会と同様に、IOC(国際オリンピック委員会)はこの「平和の祭典」が国際理解と友好を促進し、世界をよりよい場所にするものだと信じていた。



ミュンヘン五輪は、その目標のいずれも達成しなかった。東ドイツにとって、ミュンヘン大会は西ドイツと手に手を取る大会ではなく、東西の社会政治的分断を見せつける場だった。

オリンピック参加でようやく、独自のユニホームを持つ完全な主権国家として振る舞うことを許された東ドイツの人々は、ホスト国の西ドイツに対して自国の特異性をこれでもかと強調してみせた。

彼らは、わざわざミュンヘンに来た唯一の理由は自国選手を応援するためだと主張した。ミュンヘンの左派勢力との交流も避け、バイエルン産のビールすら拒否して自国から持ち込んだビールを飲んだ。

東ドイツの人々の冷淡さに気を悪くして、従来なら愛国心を丸出しにするのを嫌う西ドイツの人々までも、自国選手だけに声援を送り、誇らしげに西ドイツ国旗を振って見せた。振り返ってみればこのミュンヘン五輪における東西ドイツの連携の失敗は、約20年後の東西統一の困難を予測するものだった。

ヒトラーを止められず

もちろん、今となっては72年のミュンヘン大会といってまず思い出されるのは、東西ドイツの「競技場内冷戦」などではなく、11人のイスラエル人選手らが殺害されたパレスチナ過激派「黒い9月」によるテロ事件だろう。彼らは、パレスチナ人の苦境を世界にアピールするためには、ミュンヘン五輪がこれ以上ない最大のテロ実行の舞台であると考えた。

結局、ミュンヘンの惨劇はイスラエルとパレスチナの対立を激しく悪化させた。そして、今日まで続く暴力と報復の連鎖を後押しすることになった。

72年のミュンヘン大会に比べれば、88年に韓国で開催されたソウルオリンピックは幸いにも、大会中の人的被害は免れた。だがこの大会からも、平昌オリンピックへの教訓が読み取れる。

当初、北朝鮮はオリンピックの南北共同開催を提案していた。世界から非難されてばかりの金日成(キム・イルソン)主席が、いかに平和を愛しているかを国際社会に見せつけようとの狙いだ。同時に北朝鮮は、提案が聞き入れられなければ大会をボイコットする、さらには何らかの「偶発的軍事衝突」が発生しかねない、と警告していた。

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