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政府と人民を飲み込む党――全人代第五報

ニューズウィーク日本版 / 2018年3月22日 16時0分

3月20日、全人代の閉幕式を習近平の講話が飾った。絶大な権力を掌握した「人民領袖」習近平は、憲法改正と政府の機構改革、および党と政府系メディアの一元化により政府と人民を飲み込んだ形になる。

「人民領袖」になった習近平

「領袖(りょうしゅう)」という言葉は、その昔、襟(領)と袖が人目に立つことから「人を率いてその長となる人物」のことを指していた。それが1946年以降、解放戦争(国共内戦)が本格化し、解放軍(中国共産党軍)が優勢を占めるようになった辺りから、「五大領袖」として東西南北と中央の5地域を統率する中国共産党委員会の書記を指すようになった。

毛沢東はその頂点に立つので、「偉大なる領袖」と称せられていた。1949年10月1日に新中国(中華人民共和国)が誕生すると、庶民は毛沢東を「偉大領袖(偉大なる領袖)」「英明領袖(英明なる領袖)」と絶賛し、数多くの歌までが生まれて、筆者など小学校でも毎日歌わされたものだ。書店でも公園でも、拡声器から「偉大領袖」の歌が流れてくる。

まるで空気を吸うのと同じくらいに「無くてはならない」存在だった。

毛沢東による大躍進政策が失敗し、1959年に毛沢東に代わって国家主席に就任した劉少奇も、就任当初はまだ「偉大領袖」と称せられていた。それが気に入らなくて文化大革命(文革)を発動し、劉少奇を逮捕して獄死させた後、国家主席の座は不在となり、毛沢東の死を迎える。

国家主席を空席にしたまま、毛沢東の死によって文革が終息し、中共中央総書記、中央軍事委員会主席および国務院総理に就任した華国鋒は「英明領袖」と称せられ、彼を最後に「領袖」の呼称は消えた。

鄧小平が1982年に憲法を改正して「国家主席」の職位を復活させるとともに、その任期を二期10年と制限したとき、「領袖」という呼称も中国から消えたのである。

個人崇拝を許せば、国が亡び、党が滅ぶと決断したからであった。

その「領袖」を「人民領袖」という呼称で甦らせ、習近平に冠したことが、今般の一連の動きを象徴している。

たとえば、中国共産党機関紙「人民日報」の電子版「人民網」などは「人民領袖習近平」という表現を堂々と用いている。他のメディアも一斉に、その表現に揃えている。

習近平に対して「領袖」という言葉を最初に使い始めたのは人民網で、時期は2014年6月16日のことである。その記事では上から4行目に「領袖範児」という言葉がある。これは「習近平には領袖にふさわしい風格(オーラ)がある」という意味だ。

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