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落合陽一に聞く、落合陽一のこと

ニューズウィーク日本版 / 2018年9月6日 18時0分

――昔から、小さいときからそうだった?

小さいときからずっとそう。幼稚園で「これやりたーい!」って言うと、みんな「やりたくなーい」と言って。じゃあ僕ひとりでやるからどうぞ、という感じだった。例えばみんながドラゴンボールごっこをしたいって言ったら、僕は松平健の役をやる、と言って。でも松平健はドラゴンボールに出てこない。僕は、暴れん坊将軍のほうが好きだった。

――自分のやりたいことは理解されないと悟ったとき、周りに合わせようとはしなかったのか。

合わせようとせずに1人で楽しむことは多かった。でも、1人だった時間はそんなに長くなくて、合う人はいた。幼稚園にあまり友達がいなかったら、母親の友人の子供と遊びに行ったりとか、そういうことがよくあったし、それはそれで楽しかった。

人の評価が気になるのは、近代教育の影響だ

――小さいときに、褒められた?

小さいときには褒められて嬉しかったこともあるし、けなされて悲しかったこともあったかもしれないけど、今はもうない。それは、自分が「近代教育」から抜けたから。小学校から高校までが、近代教育。日本ではこの間に、他人にけなされたら悲しくて、他人に褒められたら嬉しいということを刷り込まれる。

近代教育において「誰かに褒められる」というのは、つまり何らかの評価機構に「良いです」と言われることだ。テストで良い点数をとったり、かけっこで1等賞になったり。そのことに価値があると小学校1年生から高校3年生まで教え込まれる。

逆に、そういうのは別にどうでもいいから、というのが大学教育。評価基準を自分で作って、自分で「美しい」と認めるのが大学の、アカデミズムの世界だ。つまりそれは美学の領域で、研究というのは美学であり、コミュニティー作りかつ探究だ。

僕は今、(筑波大で)大学教育をしている側の人間だ。大学では、(褒められるためではなく)自分がやりたいと思ったことをまじめにやればいい。そう思うと、あまり何も気にならなくなってくる。そういう人たちをどれだけ育てることができるかが、勝負だと思っている。

僕は今、「出る杭」として打たれている気はしていない。打ってくる球は打ち返すけど、打たれることが嫌だと思うのは教育の影響だと思う。本来、出る杭は打つ必要ないから。出る杭を打ち合っている時間はないのに、みんな、他人に興味がありすぎる。

僕、他人に興味がないからね。他人に興味がない人が増えたらいいなと思うけど、それは思いやりがない人という意味ではなくて。道端で人が倒れていたら、大丈夫か?となるし、お隣さんに迷惑をかけないようにしようとも思う。それは美意識の問題だ。でも、「お隣さんが車を持っているからうらやましい」というのは美意識ではない。

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