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仏領ニューカレドニアの差別と血に濡れた独立運動

ニューズウィーク日本版 / 2018年11月8日 18時10分

その協定の中で、2018年までに独立の賛否についての住民投票を行うことが決まっており、今回の投票となった。



フランスでの住民投票のニュースの扱いは正直拍子抜けだった。トップではあったが、特集が組まれるわけでもない。

ただ国営テレビの画面は、別の意味で興味深いものだった。

ある独立反対派の会合のルポで「明日の朝起きてもまだフランス人でいられる」と喜ぶ混血の住民が出ていた。だが後ろにいるのは白人ばかりだし、この会の会長も白人。独立派は先住民のカナック族で、肌は黒い。見事な対照である。

植民地の清算のむずかしさを改めて知らされた。

さらに歴史を振り返ってみる。

ニューカレドニアがフランス領になったのは、1853年。日本では、浦賀に黒船が来航した年だ。

1931年のパリでの植民地博覧会にあわせた「人間動物園」では111人のカナックが「展示」された。一行は、民族の大使だといわれて英雄のようにして島を出発したのだが、パリにつくと檻に入れられ「本物の人喰い人種」だとされ、生肉を食べさせられたりした。もちろん、人喰いではない。

人種ヒエラルキーで最低ランク

オセアニア学の専門家サラ・モハメッド=ガイヤールさん(ルフィガロ電子版2018/11/2)によると、フランス領になった後、カナックは激しく抵抗、虐殺もあった。そのためにもっとも粗暴で未開だとされ、19世紀末に確立された人種のヒエラルキーでは、ポリネシア人よりも低くみられ、カナックは最低にランクされていた。

ちなみに、このとき、パリで「展示」された中に、1998年のサッカーW杯で優勝したフランスチームのMFクリスチャン・カランブーの曾祖父ウイリーも入っていた。W杯の頃に出版された本でこの話は有名になったのだが、カランブー選手は、このときまでこの事実は一切知らされていなかったという。

第2次大戦後、フランスは植民地という用語を廃止したが、植民地の歴史はそれでは終わらない。

ニューカレドニアには、世界第4位といわれるニッケル鉱山があり、戦後復興と経済成長の中で脚光を浴びた。フランス本土からはもちろん、インドシナやアルジェリアの独立で追い出され、行き場のなくなった引揚者もいて、かえって入植者は増えた。

1970年代にカナックはニューカレドニアの総人口の過半数を割り、その後比率はどんどん下がり、 2014年の国勢調査では39.05% 、ヨーロッパ人は27.24 %である。

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